ミフウズラのお話    インド北東部ナガランド州、アオ族の民話

 

 小さなミフウズラは、かつては美しい鳥でした。魅力的で若く、声もよかったので、このメスのミフウズラに、若いオスの鳥たちはみな、すぐに夢中になりました。そして一羽ずつそばにやってきては、結婚を申し込みました。けれどもミフウズラはお高くとまって、ことごとく求婚を断りました。そして、とある農家の稲田のそばに立っていた低い木を住みかに選び、ひとりきりでいました。

 大人の仲間入りをしたばかりの若いゴシキドリが、近くの森の高いこずえからやってきました。この鳥もまた、ミフウズラに求婚しました。けれども巣立ちをしたばかりで、見映えがせず、魅力もありません。羽は十分に生えそろわず、その歌声も、優秀な歌い手の修練を積んだ声とはかけ離れていました。いっぽう、かわいらしい小さなミフウズラはといいますと、こんなみすぼらしいオスに求婚されたことを、恥だと思いました。それでゴシキドリを冷淡にあつかい、その申し込みをぴしゃりとはねつけました。おまえは醜く、身だしなみもなっちゃない、あたしのような高貴なものにはふさわしくない、とずけずけ言ったのです。

 若いゴシキドリはたいそう悲しくなり、森のねぐらへと帰っていきました。ところが数週間もたつと羽はきれいに生えそろい、鮮やかな緑色となって、青々と茂る木々の若葉よりも輝いてみえるようになりました。もう、ゴシキドリは深い悲しみから立ち直りました。それが証拠にある日、うれしさのあまり、歌いだしました。高い高い木のてっぺんで、枝から枝へと飛び跳ねてもみました。その歌声は、この地方のすみずみに聞こえ渡りました。あたり一帯の稲田の静けさを破り、周辺の原野にまでひびき渡ったのです。

 この美しい歌を耳にした小さなミフウズラは、自分のいる低い枝から歌声が響くほうを見上げました。するとそこに、以前自分が求婚を断った、あのオスのゴシキドリがいるではありませんか。まばゆいばかりのその姿に、ミフウズラの心は動きました。それどころか、ミフウズラは恋をしてしまいました。その歌声があまりにすばらしいので、何度でも繰り返し聞いていたいと思いました。けれども同時に、ゴシキドリのメスたちが、この新たなオスの存在をほうっておくはずがありません。それぞれに自分の巣で歌いだし、競い合って美声を聞かせようとしました。みんな、このうるわしいオスに、気づいてもらいたかったのです。小さなミフウズラも求婚されたくて、大きな声で歌いました。けれども、エメラルド色のこのゴシキドリは、今度はあからさまに言ったのでした。「遅すぎるよ」。小さなミフウズラは、自分が前にしたことを恥じ、失望のあまり顔を覆いました。

 まもなく、ミフウズラの結婚適齢期は過ぎました。求婚にやってくる鳥は、もう一羽もいません。どんなに平凡で、見た目が悪くてもいいから、だれかと結婚したいとミフウズラは思いました。けれどもどのオスも、もう興味を持ってはくれませんでした。それどころか、鳥たちばかりか虫たちさえも、みんなでミフウズラをさげすみました。ミフウズラがいかに愚かだったかをうわさし、同世代の物笑いの種にしました。小さなミフウズラは恥ずかしくて、もう空を飛ぶ気にもなれませんでした。やっとのことで、稲田の真ん中に農夫が置いたままにした干し草の小さな山を見つけました。その積み上がった草の下に新しい住みかを作りました。ここは稲に囲まれて、ほかの鳥たちからは見えない、よい隠れ家になりました。

 小さなミフウズラは、この新しい住みかなら、だれにも見つからないだろうと思いました。そしてもうこれ以上、笑いものにならないことを願いました。けれどもイナゴは、その目であらゆる方角を見ていますから、まもなくミフウズラを見つけ出し、大きな声でこんな歌を歌いました。

 

ああ、ミフウズラは愚かなり、

低い木に住んでいた小鳥、

木のてっぺんに住むのをことわり、

選んだ住みかはそのかわり、

農夫が積んだ草の下、固い地面の上にあり。

 

 こうして今日でも、アオ族の人々の間では、ミフウズラは稲田だけで見られる鳥だと言われています。ミフウズラは草の根元に巣を作り、稲田や周囲の低い茂みを歩き回ります。決して上空は飛びません。ほかの鳥や生き物たちの手前、恥ずかしいのです。一方、優美なゴシキドリは、木のてっぺんを住みかにして、一番高い木々のこずえでさえずります。美しいゴシキドリは、こうして自分の存在をまんべんなく知らしめるのです。下の地面では、ミフウズラがみじめな思いでその歌を聞いているに違いありません。 

 

Love between Two BirdsNagaland

“Folktales of India”University Of Chicago Press

 

 

すずめの子     フアン・ラモン・ヒメネス

 

 ペチュニアの香の漂う、心地よい秋の陽射しのなかで、ベンチに腰をおろした。いましがた通ってきた石だたみの道には、実をつけたプラタナスの街路樹がたくさんの青い影を落とし、わたしはそこが川だと想像してみた。そしてその川に、想いを投じた・・・。

 いきなり、羽を膨らませたすずめの子が、ちょんちょん跳びながらこちらにむかって来た。黒いガラス玉のようなふたつの小さな目でわたしを見つめている。そばに来た。ただひとつだけ、とっさに頭に浮かんだ呼び方で、子犬を呼ぶように声をかけてやったら、すずめの子はわたしのそばにやって来た。

 あげられるものは、なにもなかった。むだと知りつつ、ポケットというポケットを探した。まわりになにか、かれの目を引くようなものがないか探した。なかった。言葉がわかるものなら、こう言ってやっただろう。待ってなさい、家で探してみよう。ここから5、6キロのところだ。すぐ戻ってくるよ。・・・けれども言葉は通じない。ずっとそこにいてほしかったのに、すずめの子はちょっとずつ遠ざかり、行ってしまった。沈む夕日とともに、哀しみをわたしに残して。

 

訳/スペイン語から

 

El Gorrioncillo

Juan Ramón Jiménez. 18811958  (スペイン)

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ファン・ラモン・ヒメネス ―詩にささげた生涯―

 

 ファン・ラモン・ヒメネスは、18811223日、アンダルシア地方ウェルバ県の、白い家並みの美しいモゲールという町に、ワインの醸造・販売を手掛ける家の次男として生まれた。早くから絵画や詩に関心を寄せ、1896年、画家を志してセビーリャへ行くが、父親の勧めもあり、セビーリャ大学で法律を学ぶ。しかし、芸術や文学への思いを断ちがたく、グスタボ・アドルフォ・ベッケル(18361870)に代表されるスペイン叙情詩人やフランス象徴主義の詩人たちの詩に親しみつつ自らも新聞や雑誌に詩を投稿し、次第にその才能を開花させていった。

 1899年、法律の勉強に見切りをつけ、翌年にはマドリードへ行き、詩人としての第一歩を踏み出すが、その矢先に父親が亡くなり、そのショックからうつ病の症状があらわれる。マドリードや南仏で療養生活を送るが、この間もアントニオ・マチャード(18751939)やラモン・デル・バリェ‐インクラ(18661936)らと交流し、なかでもニカラグア出身のモデルニスモの代表的詩人、ルベン・ダリーオ(18671916)からは多大な影響を受ける。

 1905年、父親の死によって家の経済状況が悪くなったこともあり、故郷モゲールに戻り、1911年にふたたびマドリードに戻るまで滞在する。今日なお世界中の多くの読者に愛される散文詩『プラテーロとわたし』のほとんどが、このころに書かれた。これは1914年、初めて一冊の本になるが、編集者が子ども向けの読み物として作った縮約版だった(138篇からなる完全版は1917年に刊行)。そのためか、今なお児童書の扱いをされることも多いが、ファン・ラモンは「わたしは一度も子ども向けに書いたことはないし、書くつもりもない。子どもは大人が読むものを読めると信じているから」と述べている(*1)。

 1913年、生涯を共にすることとなるセノビア・カンプルビー・アイマール(1887-1956)と出会う。セノビアは、スペイン、バルセローナ県の生まれだが、母がプエルトリコ人であったことからアメリカで教育を受け、英語に堪能だった。ノーベル文学賞をこの年受賞したインドの詩人、タゴールの詩を、セノビアがスペイン語に翻訳し、ファン・ラモンはそれを詩の形にしていった。1916年に二人は結婚し、その後も生涯変わらず、セノビアはファン・ラモンの最高の協力者、精神的支えであり続けた。

 ファン・ラモンは詩作に没頭し、やがて韻律にとらわれない、自由で純粋な詩(本人の言葉では「裸の詩」)を求めていくようになる。彼の詩に対する想いは、このころに書かれた、「詩」というタイトルの、俳句のように短い詩に端的にあらわれる。

 

「詩」

それ以上さわるな

それがバラだから!

(『石と空』1919年)

 

 やがて彼は、F・ガルシア・ロルカ(1898-1936)、ラファエル・アルベルティ(1902-1999)、ビセンテ・アレクサンドレ(1898-1984)らとともにスペイン詩壇の中心的存在となっていく。

 しかし、すべてが順風満帆というわけではなかった。1928年の母親の死に続いて、繊細な詩人の心をかき乱すようなできごとが次々と起きる。まず1931年、セノビアに最初のガンの兆候が表れる。翌年にはファン・ラモンに恋愛感情を寄せていた女流彫刻家マルガ・ヒル・ロセット(19081932)がピストル自殺する。19367月にはスペイン内戦が勃発、17歳年下だったガルシア・ロルカはグラナダ近郊で銃殺され、スペイン内戦でもっとも多くの死傷者を出した1938年の「テルエルの戦い」で甥の一人が戦死。19392月には、アントニオ・マチャードもまた亡命先の南フランスで肺炎のためこの世を去る。

 内戦が始まると、夫妻は孤児の支援活動をしていたが、スペイン共和国政府の文化担当官の任務を受けたファン・ラモンは、セノビアとともにワシントンに発った。19393月、フランコ側が勝利すると、夫妻はスペインに戻らぬ決意をする。

 1939年から1942年にかけてはマイアミに滞在する。1940年、ファン・ラモンはうつ状態となってマイアミの病院で数ヵ月の療養生活を余技なくされたこともあったが、このころ、野心的な二つの作品『エスパシオ(空間)』と『ティエンポ(時間)』の構想を得る。しかし最終的に完成させたのは『エスパシオ』(1954)のほうだけで、これは20世紀スペイン叙情詩の最高傑作といわれる。

 1942年、ワシントンに移り、44年から46年までセノビアと共にメリーランド大学で教鞭をとったが、ふたたびふさぎこむようになり、8ヵ月ほどの入院生活を送った。1948年の8月から11月にかけてアルゼンチンとウルグアイで講演をし、熱狂的な歓迎をうける。

 70歳を前に、医師からの勧めもあって、生まれ故郷モゲールに似た環境のプエルトリコに移り住む。ここはセノビアにとってもゆかりの深い地だった。ファン・ラモンはプエルトリコ大学で教鞭をとりながら、言葉へのさらなる深い思索を続けた。「詩作とは、常に開き、決して閉じないもの」と述べ、常に完璧を求め続け、過去に自分が書いたものについても何度も推敲を重ねていた(*2)。

 19561025日、プエルトリコ滞在中にノーベル文学賞を授与されたが、セノビアがガンで入院中だったため、授賞式には行けなかった。「セノビアこそが本当の受賞者だ」と、ファン・ラモンはメッセージを寄せた。その3日後、最愛のセノビアは亡くなった。

 1958529日、プエルトリコのサンファンで、セノビアと同じ病院で死す。76歳。自宅には未完のままの膨大な量の原稿が残されていた。66日、甥の手配により夫妻の遺体はモゲールに運ばれ、この町の墓に埋葬された。

 没後半世紀以上を経て、プエルトリコ大学に保管されていたファン・ラモンの遺稿は整理され、2012年、『エスパシオ イ ティエンポ(空間と時間)』という一冊の本としてリンテオ出版から刊行された(*3)。

 

*1 Juan Ramón JiménezPlatero y yo(Taurus)の序文による。

*2 エル・パイス紙201291日記事「Testamento definitivo de un poeta inacabado(未完の詩人が最終的に遺した言葉)」による。

*3 ウェルバデジタル新聞「Helvaya.es201326日付記事「Editan Espacio y Tiempode Juan Ramón Jiménez en un mismo volumen(ファン・ラモン・ヒメネス『エスパシオ イ ティエンポ』が一冊の本として刊行される)」及びリンテオ出版のホームページによる。

 

つばめ     ニセト・デ・サマコイス

どこへゆく、すばやいつばめよ
その疲れたからだで
風吹くなか、道に迷い
身をまもるすべもない

愛する国と生まれた家を
ぼくもまた、あとにした
さすらう日々、胸さける思い
もうあの家に戻れない

ぼくの寝床のかたわらに
冬越すねぐらを作ってやろう
おまえと同じ、さまよう身だけど
ああ、ぼくには羽がない

いとしい鳥よ、旅する友よ
心はおまえを抱きしめる
歌を聞こう、やさしいつばめよ
ふるさとしのび ぼくは泣く

訳/スペイン語から


La Golondrina
Niceto de Zamacois.1820-1885  (スペイン生まれ メキシコで死す)
(Mexican Folk music: Juan Arvizu version)