連載 その⑨

 

RLの区別について>

 

 ずいぶん前のことになるが、日本人のRLが区別できないことを揶揄する風刺画を見たことがある。英語で書かれた本のカバーになっていて、その本のタイトルが“Is that R as in Rondon or L as in Lome?”(それって、ロンドンのR、それともローマのL?)というものだった。悪いジョーク、と思った。こういうことをからかうのは品のいいものではない。

 いまさらのようだが、日本語のRは、英語のRの音でもLの音でもないのだ。日本人にとって、耳で聞いてLondonRondonと区別がつかないことは多いし、RomeLomeと聞こえてしまうこともある。両方とも日本語にない音だから聞き分けるのがむずかしいからだ。スペルは目で覚えられても、発音は日本語にない音を発音するのは、正確な発音のテープなりレコーダーなりで繰り返し聞かなければむずかしい。もちろん直接英語圏の人の発音が聞ければいいのだけれども。

 日本語のRの発音は、舌先で口蓋の前部の真ん中へん、およそタチツテトと同じところを空気を含めて叩く。舌はラリルレロと言うとき、確かに口蓋に触れている。だが、Tのときのように舌は弛緩していない。舌がどこにも触れない英語のRの音とはちがうのだ。Lともちがう。英語のLは日本語のダディドゥデドの位置でラリルレロと言ってみればいい。それが英語のLの発音によく似る音が出るところだ。ようするに、日本語のRは、英語のRの音でもLの音でもないのだ。似て非なるもの。日本語のラジオはradio でもladioでもないのだ。

 英語が日本に入ってきたとき、いや、英語だけでなくアルファベットの言葉が日本に入ってきたとき、外国の言葉は日本語のアイウエオ51音にちかい音で書き表すようになった。地名、人名、ミシンやスピードなど物や事象の言い回しがカタカナで書き表されるようになった。外国語を日本語に取り入れた黎明期に、私たちの先人にしていただきたかったなと思うことがある。それはRLの区別を文字に印を付けて表すことだ。印はなんでもいい。例えばRomeならローマのロの上に小さく丶を付ける。そうすればそれはR(アール)の言葉だとわかる。外国の言葉を日本語のカタカナで書き表すという努力がなされたのだから、きっとこのような区別を考えた先人もいたにちがいない。でも、察するに、目に煩雑に映るとか、日本語の純粋性を犯すなどという反対にあったのではないだろうか。それともこんなことを思いつくのはわたしだけ?

 RまたはLに印をつけて音の区別をすること。とても簡単そうなことなのに、おこなわれてこなかった。それでいまでも私たちは、ロジスティックというカタカナを見るとき原語がLogistic なのかRogisticなのか、ラルフローレンはLarph RaulenなのかRalph Laurenなのかあやふやだ。英語で書こうとしたとき慌てて辞書やネットで確かめるということになる。

 わたしは翻訳中、原語の音をそのままカタカナに直して使うとき、その言葉にラリルレロが含まれると、印をつけてRなのかLなのかわかるようにしたい! と思うことがある。今回はその思いを吐露しました。

連載 その⑧

 

和製英語は便利?

 

 冬季オリンピックが終わった。熱心にテレビで観戦していた人はソチオリンピックが終わって喪失感を味わっているとか。それを“ソチロス”というと今日のテレビで司会者が言っていた。去年の朝の連続ドラマ『あまちゃん』が終わった後、熱心なファンはしばらくあまちゃんが恋しくて“アマロス”にかかったのと似たような現象だという。ロスはloss、失うこと、喪失による悲しみ。言い得て妙というか、なんとも面白い日本語である。そう、これはもちろん、英語の意味を日本語的に繋げた和製英語で、和製英語は日本語の一つの形である、とわたしは思う。英語で話すときにそのまま使っても通じない。説明が必要である。

 中には英語にあるのではないかと思ってしまう言葉もある。たとえばハートフル(heartfull)。心のこもったとか、心からのというような言葉として日本語の広告などに使われている。でも、辞書にはハートフルという英語はない。いちばん近いのがハーティー(hearty)だろうか。ハートレス(heartless)冷淡な、冷酷なという言葉があるのにハートフルはない。これはうっかり使ってしまいそうな和製英語である。

 もう一つ、いかにもありそうな英語、でも、実際にはない、という言葉に“ホームパーティー”がある。家にお客さんを呼んでパーティーを開くことという意味合いで使われているが、これは比較的新しい和製英語。実際には、英語なら「ディナーに招く(招かれる)とか「ランチに招く(招かれる)」という表現をする。それほどフォーマルでなかったら、Let’s get together(集まりましょう)で充分。何々のためにと、たとえばだれかの誕生日とか、新しい友だちの紹介とかいう理由をつけて招待する。

 “ホームパーティー”のほうがあまり形式張らない感じがする? そういうあいまいさを表すために和製英語が誕生したのでしょう。これはこれでいいのかも。日本語に巾を作るもの、と思うことができる。でも、英語を話すときには、和製英語かもしれないと一応疑うほうがいい言葉があることにご注意。                         2014/02/25

 

連載 その⑦

 

こちらのほうでよろしかったでしょうか?

 

 デパートへお歳暮の買い物に行った。あらかじめ決めておいたので、買い物は手早く済ませることができた。ただ店員さんが品物を用意して「こちらのほうでよろしかったでしょうか?」と訊いたとき、わたしは心の中で<初めからこれと決めていたのに>とつぶやき、「ええ、こちらでお願いします」と言った。

 <こちらのほう>という表現は、二つ以上の候補があり、その中から選んだものに使ってほしいのである。<こちらのほうがいい>という表現は、<あちら>や<そちら>があるときに使ってほしいのだ。その中から、とくにそれを選んで<こちらのほう>と言うのならわかる。こんどのわたしのように、初めからこれと決めていて、二つの品物の間で迷ったりしなかった場合には、比較するものがないのだから<ほう>という言葉をつけるのはおかしいと思う。

 <ほう>という言葉をつけると柔らかい物言いになるという認識があるのかもしれない。本来は方向を示す言葉だ。<右へ曲がる>を<右のほうへ曲がる>、<上へ行く>を<上のほうへ行く>と、漠然と方向を示すときに使う。店員さんが品物に関して<こちらのほう>と言うのは、やはり漠然とした方向を示しているのだろうか。はっきりと<これ>を買ったつもりでいるわたしには、なんだか頼りない表現である。でも<ほう>をつける話しかたはいまやすっかり一般的になっていて、もう後戻りできないかもしれない。

 もう一つ、これに続く<よろしかったでしょうか?>という言いかた。もうほとんど嫁の口のききかたを叱るお姑さんのようになってしまうが、この言いかたもいまや、ものを買うとき、喫茶店、レストランで店員さんがこちらの注文を繰り返すときによく聞く言葉だ。<よろしいでしょうか?>ではなく<よろしかったでしょうか?>と過去形で言うことにはどのような意味があるのだろうか? 注文を受けたのが、繰り返す時点ですでに過去になっているから、自分が聞いた注文は正しかったかを訊くために、<何々とおっしゃいましたか?>というかわりに<何々でよろしかったでしょうか?>と言うのだろうか? まさか、ね。

 もしかすると、たんにていねいそうに聞こえるからと、だれかが始めたのが流行っただけのことかもしれない。でもわたしはいつも違和感を覚える。言葉をそのまま受けて<ええ、よろしかったです>と過去形で答えたら、どうなるのだろう。<でも、そのときはよろしかったけど、いまは変えたい>という言葉が続きそうではないか。

 言葉は四角四面におさめることができないものとじゅうぶんに承知しているけど、わたしの<なんだか変アンテナ>に触る言葉はまだまだいっぱいある。来年もどうぞよろしく!(2013年12月14日)

 

連載 その⑥

 

ございます と おります と でございます

 

「お客様、お足元にお気をつけて。低くなってございます」と言われて、わたしは足を止めた。レストランに入り、薄暗い店内を案内されたときのことである。低くなってございます? わたしの<なんだか変アンテナ>に触る言葉だ。「低くなっております」じゃないの? でも、わたしはお行儀よく、ハイ、と答え、そのときはなにも言わなかった。しばらくしてメニューが来て、今日の料理の説明が始まった。「きょうのお勧め料理は鯛の蒸し煮となってございます」。う~ん、やっぱり変。レストランで、このような言葉の使い方がこのごろでは普通になってしまっている。もしかして、これを読んで、どこが変なの? と思う読者もいるかもしれない。

 <低くなっています>をさらにていねいに言うときは、<低くなっておりま>でいい。<低くなってございます>とは言わない。<おります>は<いる><います>の丁寧語である。「今日は六時まで会社におります」「いまは特売でこの製品は安くなっております」と使う。わからなくなったら、<います>で言い換えられるかと心の中で訊いてみればいい。いっぽう、<ございます>は<ある><あります>の丁寧語。「低くなってあります」という言葉使いはない。

 では「鯛の蒸し焼きとなってございます」ではなにがおかしいか? 「蒸し焼きとなってあります」との言い換えができないから、文法的に正しくない。文法的には「鯛の蒸し焼きとなっております」が正しいが、これでは、メニューにそう書かれている、と説明しているだけで、よそよそしい。だが、ここで、「今日のお勧め料理は鯛の蒸し焼きでございます」と言われれば、客は勧められているという気分になるではないか。

 この三番目の表現、<でございます>は、言うまでもなく<である><です>の丁寧語だが、これを使うべきところに<となってございます>という、まことしやかな表現が使われているので、いまおかしな具合になってしまっているのだ。ややこしいですね。わたしがウェイターの方に「今日のお勧め料理は鯛の蒸し焼きでございます」と言うように注意したか? いいえ、しませんでした。なんだか、一生懸命に説明してくれているボーイさんにうるさいことを言うのが申し訳ないような気がして。でもやっぱり言うべきだったのかしらと少し迷っています。

 

連載 その

 

ほんとですか?

 

 このあいだ、相づちに「ほんとですか?」を連発するひとに会った。ふつうなら「へええ」とか「そうですか」とか、もし本当に話を疑うのなら「ほんとう?」と言うべきところに、わたしの話にいちいち「ほんとですか?」と言う。それほど信じられないような話をしていたわけではなく、めずらしい話をしていたわけでもなかったのに、随所随所に「ほんとですか?」と言われ、「ウソじゃないわよ」と言いたくなった。本人はわたしの話を疑ってそう言っているわけではなく、軽く、相づち代わりに言っているのだということは、話のしかたからわかったので、反論は我慢した。

 それからしばらくしてテレビで若い男性数人のおしゃべりがあって、そこでも彼らはお互いに「ほんとですか?」を連発し合っていた。なんだかほほえましくもあったが、やっぱり変。違和感あり。

 同じ番組の中で、一人の若者が食事のお代わりをうながされると、「だいじょうぶです」と言って断っていた。これは、前回書いたデパートでの「だいじょうぶですか?」の使い方同様、このごろはやりの使いかたらしい。ものを勧める立場の人が「だいじょうぶですか?」と訊く。答えるほうも「だいじょうぶです」と答える、のだろう。わたしは言わないけど。

 なにかをうながされて、断るときは「けっこうです」という言葉があるのだが、代わりに「だいじょうぶです」と言って断っているようだ。「要りません」とは言いたくないからかもしれない。「要りません」という言葉はきつすぎるのだろうか。あいまいを愛する現代の日本の若者たちには。「けっこうです」という言葉は相手との距離も適当にとれるし、便利な言葉なのに、古すぎる? 奥ゆかしい、いい言葉だとわたしは思うのだけど。

 こういうふうに、言葉がいままでとはちがう使い方がされるとき、止めようはないのかもしれないが、それでも、反応することは必要ではないかしら。言語学者ではないが、外国の言葉を日本語に翻訳している者として。いや、そんな職業的関心よりも、日常的に日本語を話している人間として、ちょっとちがった使い方を耳にしたら反応せずにはいられない。半分はおもしろがっているのですが、半分は本気です。

 

連載 その④

 

だいじょうぶですか?

 

 ショッピングモールへ買物に出かけた。婦人物売り場で夏のインナーをみつけ、近くにいた店員さんに声をかけた。若い女性の売り子さんは、わたしからシャツを受け取ってレジに向かいながら笑顔で「だいじょうぶですか?」と訊いた。わたしは「え?」と思わず、なにがだいじょうぶなのか、という顔をしてしまった。気分が悪いように見えたのだろうか? それともこのサイズでだいじょうぶかと訊いているのだろうか?

 わたしの怪訝そうな顔を見ても、その売り子さんはまったく動じずにレジまで案内し、「ほかはだいじょうぶですか?」と言った。だいじょうぶですかの意味は、ほかにほしいものはありませんかの意味だった。銀座の大きなデパートでも、同じように、この場合は最初から「ほかは」をつけて訊かれたことがある。

 だいじょうぶですか? または、ほかはだいじょうぶですか? と売り子さんが客に訊くとき、「ほかにはなにかお探しのものはありませんか? お求めのものはこれだけですね?」という意味だと、客はみんなすぐにわかるのだろうか? たとえ「ほかは」をつけたとしても、だいじょうぶという言葉をこのコンテクストで使っていいのだろうか。

 だいじょうぶは、まちがいない、これでいいと安心する気持ちを言い表す言葉。辞書を見ても、あぶなげがなく安心できるさま、強くてしっかりしているさま、とある。売り子さんが客に「ほかはだいじょうぶですか?」と訊くとき、だいじょうぶの主体はなんだろう? だいじょうぶかと訊かれているのは、わたしの記憶力? だとすると、「これだけでいいのですね? あなたの記憶はだいじょうぶですね?」と訊かれているのと同じ? 

 短い言葉で客の購買を促すのなら、「ほかはよろしいですか?」でじゅうぶんだと思う。とにかくわたしはこの「ほかはだいじょうぶですか?」にとても違和感を覚えた。でも、その場で、その言葉遣いはおかしいと注意するのはむずかしい。みんな、こういうとき、どうしているのかしら?

 言葉遣いは流行ったらもう止められない。いまはただこの表現が一部に留まり、流行らないようにと祈るしかない。

連載 その

 

じてんしゃ? じでんしゃ?

 

 友だちが「近いからこんど、じでんしゃで遊びにいくね」と言う。う〜ん。わたしはこのじんしゃという発音にいつも違和感を感じるのだ。じんしゃじゃなかったっけ? 自転車と書かれていたら、あなたはどう読む? じてんしゃ、それともじでんしゃ? それともこれは、どちらでもいい言い方なの?

 でも自転車をじでんしゃと言うのなら、辞典をじでんと言う? 地球の自転をじでんと読む? どうも自転車を「じでんしゃ」と言うのは、最近のはやりのような気がしてならない。それとも東京地方の言い方か?

 二番目の音を濁音にする読み方は、もちろんある。三階は「さんい」だけでなく「さんい」とも読むし、昔から山河草木を「さんそうもく」とも読んできた。その伝で二番目の音が濁ってじでんしゃとなったのか? でもこれらの場合は、「ん」という音のつぎにkがくるのでngの音になったのでしょう。そのほうが発音しやすいから。これとじてんしゃ、じでんしゃはちがう問題。自転車を「じでんしゃ」と読むのなら、地震を「じじん」、地響きを「じびびき」と読むかという問題だ。おっと、あった! 地酒は「じさけ」ではなく「じざけ」と読む! 困ったな、これにはなにかふか〜いわけがあるんでしたっけ?

 そう書いているうちにも、NHKの朝の番組でアナウンサーが「八王子駅前のじんしゃ置き場が近代的な設備になった」と言っている。もう! NHKがじでんしゃと言うか? とにかくわたしはこれからもじてんしゃと言うし、わたしの家に遊びにくる人はじてんしゃで来てほしいです!

 

連載 その②

 

「とは思います」

 

 またテレビに向かって、ちがうでしょ! と言ってしまった。ボストンマラソンに爆発物が投げ込まれたあと、参加者の日本人ランナーの一人が感想を訊かれて答えた言葉遣いに、である。「とても楽しみにしていたので、こんなことが起きて大変残念とは思います」。そう、残念とは思いますの「とは」の部分だ。これは本来なら、つぎに続く文章があるはずで、それは「でも、残念だとは思うけど、何々の理由でしかたがない」と、起きたことを認める気持ちがあるときに言う言葉。つまり、逆の気持ちがあるときに遣う言葉なのだ。でもこの参加者男性は、こんなことが起きて当然と言うつもりなど毛頭なかったはず。ここは「大変残念と思います」と言ってほしかった。

 もう一つスポーツニュースから。百メートルを十秒を切りそうな勢いで走った高校生ランナーのことをコメンテーターが「素晴らしいとは思います。もしかして日本人初の九秒台ランナーが誕生するかも」と言った。これもおかしいとわたしは思う。「素晴らしいとは思います」と言ってしまうと、素晴らしいとは思うけれども、それほど大騒ぎすることではないというニュアンスを載せてしまい、つぎの「日本人初の」という期待感に満ちた言葉とは矛盾したものになってしまうからだ。

 「と思います」と言うべきところを「とは思います」と言う人が多くなっている。「とは思う」と言ってしまったら、けれども、と逆説の言葉が続くはずなのだが、この言葉を言う人たちにはそんなつもりは毛頭ない。「とは思います」で文章を完結させているのだ。「は」を入れることによって表現を和らげているつもりなのだろうか。あるいは、もはやそれさえ意識されていないのかもしれない。

 一度気になると、あらゆるところでこの「とは思う」が遣われていることに気がつく。これもまたはっきり言い切らない表現を好む世相を表す言葉遣いなのだろうか。でも本来とちがう言葉遣いをしたらまちがった意味になってしまうよ。いや、そもそも本来の遣いかたとはなんぞや? その遣いかたが時代の趨勢になってしまったら、もはやまちがいではないのか? 微妙なところである。ああ、言葉は生き物!

 

連載 その①

 

「それ、取ってもらっていいですか?」

 

 ある日、いっしょに料理をしていたS子さんが、わたしのそばにあったネギのみじん切りを指差してこう言った。「それ、取ってもらっていいですか?」その日は彼女が料理の主役、わたしはお手伝い。親しい友人で、ときどき会って、いっしょに食事をしている。その彼女に「取ってもらっていいですか」と言われると、わたしはいつも少々苛立つ。そこで、「どうして、『取ってくれる?』とまっすぐに訊かないの?」と訊き返す。すると彼女はきょとんとする。わたしがこのややこしい表現に苛立つのが、彼女には理解できないらしい。彼女自身はていねいに言っているつもりなのだ。

「取ってくれる、でいいじゃない?」とわたしが言うと、わたしより5、6歳年下の彼女は、それは失礼で言えないと言う。「それなら、取ってくださる、は?」と訊くと、それではフォーマルすぎ、気取り過ぎ、と言う。あまりフォーマルにならず、しかもていねいに、ということで、「取ってもらっていいですか?」になるのだと。

 わたしがこの言葉遣いに反応したのは、じつは「~してもらっていいですか?」はいろいろな場面でよく耳にするからだ。「住所を書いてください」の代わりに「住所を書いてもらっていいですか?」「こちらに来てください」の代わりに「こちらに来てもらっていいですか?」「取ってください」の代わりに「取ってもらっていいですか?」。

 どうやらこれは、世の人々が、とくに若い層の人々が直接的な話しかたを極端に嫌うことと関係あるらしい。何々してくださいでは命令調に感じられるのかもしれない。上から目線でものを言っていると思われたくないという心理の結果、下から依頼する形で表現する「何々してもらっていいですか」になったのだろうか。

 もしかすると、「それ、取ってもらっていいですか?」は、すでにふつうの日本語として受け入れられていて、もってまわった言い方だと感じるのは、わたしだけなのだろうか?

「それ、やめてもらっていいですか?」と言ったら、通じるかしら?


柳沢由実子:翻訳家。スウェーデン語、英語からの翻訳書多数。最近の作品にアーナルデュル・インドリダソンの『湿地』、ヘニング・マンケルの『ファイアーウォール』、カーリン・アルヴテーゲンの『満開の栗の木』、アウンサン・スーチーの『自由』などがある。趣味は長唄と習字。どちらも言葉と関係があるものと最近気がついた。