「凞代勝覧(きだいしょうらん)」という約十二メートルの江戸時代の絵巻物がある。

そこには今川橋から日本橋にいたる目抜き通りのにぎわいと、千六百人におよぶ人びとの姿が描かれている。この絵巻物はベルリン東洋美術館が所蔵しており、レプリカが江戸東京博物館に陳列されている。 

 

第十四話 雨の匂い

 

 あの娘にしよう。

 目にとまった瞬間、喜次郎はそう思った。

 小女と年増の二人をお付きにした町娘だ。振り袖にこっぽりを履いている。どこのお嬢さまだろう。日本橋室町通りは十軒店に差しかかったときだった。雛市の季節であり、屋台の人形屋も多く、人出のはげしいところだ。用足しも終わっていたので、その三人連れのあとを尾けていった。

 もうじき三十になる喜次郎は、大天満町の木綿問屋に奉公して十五年以上が経つ。さわやかな外見のうえ、目端の利く働きぶりに、来年は番頭になる予定だった。

 しかし、今まで女に縁がなかった。あとは嫁さんだけだとか、選んでいるなどと、ずっと言われながら、なんとなくしそびれてきた。

 そこへ喜次郎の目に飛び込んできたのが、その娘だった。 

 娘の供をしていた小女のほうが、あらと叫ぶと、かんざし屋の店に飛び込んでいった。

「あらあ、お待ちを……」と年増の供まで中に入って行った。

 主である娘はひとり店のまえで佇んでいる。通りすぎようとして、畳んで袖下に入れてあった風呂敷を喜次郎はそっと落とした。

 娘がはっと息を呑む気配がし、つづいて「落ちましたよ」と声をかけてきた。

「これは、どうも。ご親切に」とあともどりした。

娘の近くへ寄ると、ほのかな香りがした。なんの匂いだろう。花の香りや白粉のものではない。どこか心を落ち着かせる匂いだった。恥じらって、なかば伏せた長いまつげからは、しずくでも滴りそうだ。 

「海を見に行きませんか」思わず誘っていた。

「水?……はいや」娘はかぶりを振った。

「ああ、じゃ、どこがいいかな」急いでつけくわえた。

 娘はくるりと後ろ向きになり、振り袖がゆれた。道ばたで声をかけたのだから、こりゃ振られたな、と思ったとき、

「いつ……」消え入るような声で娘は言った。

「明日、八つ、神田明神で」ほとんど思いつきだった。

 娘は後ろ向きのまま白い首でうなずいた。

 にぎやかにはしゃいだ声がして、供の女たちが店から出てきた。

 そのまま三人連れは、室町通りの店をひやかしながら、紺屋町のほうへ歩いて行った。

大きな干し場に何本もの反物がゆれる染物屋のまえに立ち止まると、

「今日一日貸してあげる。そのままお帰り」小女が娘にそう言って、中へ入って行った。

「明日の朝、ちゃんと返すんだよ」と年増のほうが娘の振り袖を指さした。

 妙な会話と、取り残された娘が、ひとりで歩いていくのが気になり、喜次郎はさらにあとを尾けて行った。娘は両国橋を渡り、向こう両国の見せ物小屋のあいだを縫っていくと、その奥のみすぼらしい家の腰高障子を開けた。

 その家からも、娘にかいだ匂いがしてくる。

「お帰り。どうしたんだい、その装りは」という声がする。

「お嬢さまが、あたしのと取りかえたいとおっしゃってね、今日だけ貸してくれるというから」

「お嬢さまは変わり者だね。汚したら大変だよ」

 喜次郎は顔が蒼ざめていくのが、自分でもわかった。なんだ、衣装の取り替えっこしていただけなのか。家の藁屋根にはペンペン草が生え、強い雨でも降ったら、いまにも崩れそうである。腰高障子の板は湿りきって黒ずんでいる。そのうらぶれたようすに、喜次郎は身をひるがえした。

 翌日の八つになっても喜次郎は出かけなかった。あの娘がいつまでも待っている気がしたが、仕事が忙しいのだと自分に言い聞かせた。     

 

 三か月が経った。しかし喜次郎は娘のことが忘れられなかった。その間、縁談もいくつかあり、いざ決まりそうになると、どうしてもあの娘でなければならない気がしてくる。

 その日、郡代屋敷へ反物を届けに行く用をすませると、喜次郎は両国橋を渡った。見世物小屋の間を縫って、迷いながら娘の家にたどりついた。

 家は昨年見たときよりも、さらにうらぶれている。あんなことをしたので、ここへ来るのに迷う気持ちもあった。さぞかし向こうは怒っているだろう。しかし、こんな家の娘なんだ、喜次郎の誘いに飛びつくはずだと考えた。

「ごめんくださいまし」

 声をかけながら、腰高障子を開けた。開けると、中からかびた匂いがし、顔や肌が湿気におおわれる気がした。

 出てきたのは、あの娘だった。粗末な装りをしていたが、やはりうっとりするほど美しい。喜次郎のことを覚えていたらしく、

「あら……」と言って、目を見張った。

しばらく見つめあったうえに、

「ぜひ逢いたいんだ。明日……」と喜次郎は思いきって言った。

「明日の八つに神田明神へ来いって? 行くと思います?」

 娘になじられるのは覚悟のうえ、皮肉られるのは仕方がない。

「いいですよ。参りましょ」しかし娘は気軽に承諾した。それからいぶかしげな表情になった。「でも、どうしてここがあたしの家だとわかったのです」

 喜次郎が答えられないでいると、

「わかりました。この前、あたしの後を尾けたのですね。そして、あたしがお嬢さまでなく、こんな家に住んでいたから、あの日、来なかったのでしょう」

 娘はそう言うと、大胆にも喜次郎の近くにするりと寄ってきた。

「でも、あなたにお目にかかれるのをずっとお待ちしておりました。もう遅いけれど」

 言いながら喜次郎の袖をとったり、肩に白い手を置いたりした。娘からは、あの心落ち着く匂いがした、花の匂いでも香の匂いでもない。

 

 翌日、喜次郎は約束の場所に出かけた。娘はきっと来ると信じていた。

 しかし、いつまで経っても娘は現れなかった。

――そうか、三か月まえの仇をとるために約束したのか。あたりまえだ。

 空が黄昏れてくるとともに、雲行きも怪しくなってきた。雨が降りそうだ。大気が湿っぽい。そして、やっと気づいた。娘にかいだのは雨の匂いだ。

 気づいたとき、娘の声がした。

――あたしは雨の精。本気であたしを好きになってくれる誠実な男がいたら、人間になれたのに。あのとき、あなたが来てくれていたら……。

 はっと振り返ったが、辺りはうす墨いろの闇があるだけだった。 

――気のせいか。

 自分のしたことに打ちひしがれて、家に帰った。

 翌日、昨日の小袖を着ようとすると、小袖にはなにか文様が浮かんでいる。よく見ると、それは黒い黴(かび)であった。娘がすり寄ってきて触れた箇所、肩や袖など。

 その黴は、こすっても、洗っても、落ちなかった。    

 

第十三話 桜の樹の下

 

 とうとう桜が咲きはじめた。長く寒い冬は終わったのだ。

 しかし清兵衛は、この季節が好きではなかった。

風はなまあたたかく、それでいて強い。樹々の枝がやたら振り立てられ、どうにも落ち着かない。

 それに江戸での花見は、故郷のそれに比べると風が冷たく、うすら寒く感じる。子どものころの花の季節は、蕩けるような暖かさがあった。十三のときに江戸へ出てきて四十年も経つから、たんに年を取って冷えを感じやすくなっているだけかもしれない。

 用足しが早く終わったので、もうひとつ寄ろうと室町通りを日本橋に向かっていた。桜が咲く時期は、人びとの顔つきや足取りもどことなく浮かれているようだ。

花見の宴にもずっと行っていない。

 きょうは起きたときからなんだか変だった。さっきの商談の合間にも誘いがあったが断った。大事な顧客だったが、いやな気分が抜けきれず、この気候のせいか首を縦に振れなかった。店を出るとき、女房が清兵衛の後ろ姿をずっと見送っていた。それも変といえば変だ。

 

もうひとついやな記憶がある。

 十年まえのこの季節に一人息子が家出していた。甘やかしすぎたのか、十六を過ぎたころには、いっぱしの悪(わる)になっていた。賭け事、女遊び、借金、喧嘩と、もめ事ばかり起こしていた。打ちすえたり、蹴飛ばしたりもし、あいだに入った女房はただ嘆き悲しむという日々がつづいた。

 父親の小言と母親の涙に、本人もうんざりしたのだろう、やがて家を飛びだし、それきり行方知れずになっている。

 暖かそうで、どこか底冷えのする日だった。暖かさに頭のなかはぼうっとしているのに、風の感じが体の芯に入ってくるような、こんな日だった。

 ひと捻りの銭を袖の下に突っ込み、平吉の身柄をたびたび引き取ってくれた岡っ引にもたのみ、八方手を尽くして探したのだが、行方は杳として知れなかった。

 清兵衛の苦労を知っているその岡っ引に会うと、

「子どもってのは、見ないは、ないもおんなじさ。親が思うよりちゃんとやってるよ」となぐさめられた。

そういえば、子どものいない日々は――もめ事のない日々ではあった。

 でも、あいつがまともだったら、今ごろは孫の一人や二人、花見の宴で騒ぐ姿も見られただろう。

 

いや、こんなことを考えるのはやめよう。そう思いながら日本橋を渡りきった。

 渡りきったとき、あたりの風景がいつもと違うような気がした。

 なにか変だ。たしかに日本橋の南橋詰めの景色ではある。高札場があり、土蔵の多いところもおなじである。

 橋を渡りきった先に一本の桜の樹があった。

 上野の山の何百本という桜も見事であるが、いつもなにげなく素通りしていた場所に、おや、こんなところにも桜が、と気づくことがあり、みょうにほれぼれと見ることがある。

 清兵衛は、足をとめた。息子の姿を見た人が数人いて、一番あとの場所がここだった。探し回っていたときは何度も足を運んだが、いつも花は終わっていたし、咲いているところを見たことがなかった。

きょうはよく咲いている。やや満開をすぎ、散りかかりはじめていた。

 そして清兵衛はようやく気づいた。古びていた鶴屋ののれんが真新しい。反対についこのあいだ新築したはずの橋番屋の床店が古くなっている。まわりの景色は十年まえのものだった。 

そう思ったとき、息子が桜の樹の下に立っていた。十年まえのほっそりした姿のまま、上目づかいにこちらを見ている。

 ――平吉ではないか。

 急いで駆けよった。たしかに我が子だ。

「よく無事でいたなぁ。どんなに心配したことか」思わず涙があふれた。

「おとっつぁん……そんなに俺のことが」

「ああ、そうとも。悪かった、悪かった。もう殴ったりしない」

「逃げたりして悪かったよ」

「おまえは世間から逃げているとずっと思ってきたが、それは違う。わしがおまえから逃げようとしていた。もう逃げたりはしない。おまえはおまえだ。なにがあろうとも、おまえはわしの子だ」

「そんなふうに思ってくれるのか」

「ああ、そうとも。だから帰っておくれ、な」

 平吉は、うすい肩を落として、いつもに似ず素直にうなずいている。

 手をにぎろうと、さらに近寄ったとき、平吉の姿はかき消えた。

桜の樹の下には、散りかけの花びらだけが舞い、あたりの風景も元に戻っていた。

 ――なんだ、幻だったのか。

 

 用を終えて帰る道すがら、桜の樹に目をとめたが、なんの変わりもない。

 しかし、と清兵衛は考えた。平吉はあの樹の下で瞑っているのかもしれない。家へ帰ったらすぐ、あの岡っ引から同心の旦那に話してもらって、いちど堀り返してもらおう。いやな、不吉な予感だったが、そうしなければ平吉も浮かばれまい。

 女房は、なんと言うだろう。そんなのはいやだと言うに決まっている。平吉は生きていると。

 あれこれ思い迷いながら、多町一丁目の店にたどり着いた。

「おまえさん、遅かったじゃないか。お弁当はできているよ」女房の明るい声がした。

「弁当だと?」

 夕方のこんな時刻に、なぜ弁当がいる。

「おとっつぁんか、お帰りなさい。話はまとまりましたか」

 男の声がし、清兵衛を迎えたその顔を見て、あっと声をあげた。

「へ、平吉……」

「どうしたんです、 びっくりした顔をして」と平吉が言った。

 前掛けをきっちり巻き、しゃんと立つ男の姿は三十ちかく。たくましい肩をしていた。

「今朝、おっかさんと話していたでしょ。きょうは夜桜でも見にいかないかって」

 あっけにとられている清兵衛のまえに、二人の女の子がまつわりついてきた。

「じいさま、いきましょうよ、ね、ね」

「あ、ああ、いいとも、いいともよ」

 清兵衛は、すっかりその気になっていた。

 

第十二話  振舞い大助

 

「なんとかならんか」大助は女房のときに言った。

いつものように、ときは困った顔をした。それもわかっていたが、ほかに当てにできる者はいない。困った顔をしても、なんとかやりくりして都合をつけてくれたのだ、この二十年間。

よく付いてきてくれた、かならずやそれに報いようと思う。報いるためには昇進しかないではないか。そして昇進してきた──

大助は、なんの取り柄もない男だった。

頭が切れるでもなく、武芸に秀でるでもなく、要領がよいわけでもない。そうした者は代わりに気が強かったり意志が強かったり、あるいは温厚な人柄で、だれにでも好かれる、というふうに、なにかしら補っているものだが、そういったこともない。その自覚は、大助自身、前髪を斬るころからあった。

おまけに与力の家の三男では婿入りするか、商人にでもなるしかなかった。

 

そして運よく十九歳で、中川船番所の下役人に抱えられた。

その際、父親が土産物を持参して、関係のある家へ「御礼言上」の挨拶回りをしてくれた。直接の上士となる小頭二人、その上の添士二人、さらに上の番頭二人。そのまた上の中川番四人。

土産物は、日本橋室町通りの有名な菓子舗で求め、供二人に持たせ、二、三日かけて回った。

中川番などは三千石から八千石の大身だし、大助のことも覚えているどころか、用人が出てきて「申し伝えまする」と言うだけであった。

しかし大助は、これを見習おうと決意した。

父親は与力という町奉行配下の仕事がら、付け届けの多い役職であった。大名家にいたるまで、江戸詰めの田舎侍がなにか粗相をしたときなど穏便なはからいをしてもらうため、身分の上下にかかわらず手土産持参の挨拶があった。幼いころからそんな光景を見慣れてきたせいもある。

盆暮れの手土産付きの挨拶回りのほかにも、同僚の下役人や小頭に、なにかにつけて酒席をもうけて振舞いをした。

周りの者たちも、かげでは“振舞い大助”とさげすみ、あざけりながら、振る舞われるのは、だれしも悪い気はしなかったらしい。大助には奢らせるだけ奢らせるのが、当たり前になっていた。

 

おかげでこの二十年間、時間はかかったものの順調に昇進してきた。一代かぎりの下役人から小頭へ、小頭から添士へ、そしてこのたび番頭となったのである。

家計は火の車であったが、ときの実家が裕福な商家で、なにかしら都合をつけてくれた。

跡継ぎを残して二人の息子たちは、上の身分の家の養子にした。そのたびに大助は大盤振舞いをした。十五になる娘が残っていたが、とびきりの良家に嫁がせるべく、伝を求めていまも振る舞いにいそしんでいた。

  今回、番頭になることで、周りも大助に返礼をしなければと思ったらしい。めずらしく祝いの席を設けたいと言ってきたのである。それも遊女つきで。

大助としては、ただで振舞いを受けるわけにはいかない。返礼になにか特別な品を贈りたい。日本橋は室町通りの老舗で漆塗りの文庫などはどうだろう。今までのように筆のひと揃いというわけにはいかない。せめて上等の硯とか──

そして女房のときに、あらためて頼みこんでいたのである。

「でも、おまえさま。もうこの家には、なにもございません」

たしかに、大助が頼むたびに嫁入り時に持ってきた上等な小袖や帯のほとんどが箪笥から消えていき、その箪笥さえなくなっていた。家のなかはがらんどうであった。畳も襖も来たときのまま古びている。

「その、もう一度だけ、深川の実家に頼んでくれまいか」

「まあ、おまえさま」ときが驚いて目を見張った。「深川は、もう……」

そう言えば、後継ぎの義弟が昨年亡くなり、店はたたんでしまっていた。

わしとしたことが、そんな大事なことも忘れていたとは。

「ああ、そうだった。申しわけない。気の毒なことだった。しかし、困ったな。なんとかならんかなあ」

「もうほんとに、食べるものもございませぬ。前借りばかりで、明日からでもお塩をなめ、水を飲んでいくしかないほどでございます」

大助が出世するにつれ、生計は苦しくなるいっぽうだった。 

最低の供ぞろいだけを残して小女も雇えなかったので、ときの手は荒れ、髪もいつ結ったのか脂気もなく、ほつれっぱなしである。一緒になったときは相当な美人だと思ったが、なんという変わりはてた姿だろう。大助は胸がつまった。

「そうだろうともよ。おまえの苦労はわかっておる。これが最後だ。とにかく番頭になったのだから、もうこれより上はないからの。なんとかおまえの才覚で工面してくれまいか。もう、もう……苦労はかけぬ」

ときは申しわけなさそうに、ただうつむいていた。

 しかし翌日、大助が中川番所の勤めを終えて帰宅すると、ときは大枚を差しだした。 

「これで、なんとかしてくださりませ」

「おお、これはありがたい。申しわけないのう。さすがにわが女房どのだ」大助は驚喜した。

翌日から大助は時間が空くと、さっそく日本橋の室町通りへ行き、なににしようか迷った。みんなで振る舞ってくれるというのだから、相応の物にしないと──しかし、ときの苦労を思えば少しでも残してやらにゃなるまい──いや、みんなに粗末な物だと思われても。

番所近くの拝領長屋から室町通りに出るまで、ゆうに一刻はかかる。帰りは遅くなった。あるとき帰宅すると、家の中が妙に淋しく、しいんとしているのに気づいた。

長屋といっても添士になったときに拝領し、二百坪の敷地に庭も門構えもあり、建坪は百坪近くあった。なにやらがらんとしているのは、家具がないからだ、と大助は思った。

今後はきっと振舞いを受ける身分だ、女房孝行をしようと心に誓った。

 

 返礼の品も決まり、仰せが出てから十日後、富岡八幡宮近くの料亭に、十人ほどが大助の昇進祝いに集まった。

 いままでは振る舞うばかりだったが、こんなにしてくれるのかと大助は涙にくれる思いがした。

 宴がはじまると、遊女たちがにぎやかに、はなやかに入ってきた。

「このたびの新入り、生娘ですよ」

年かさの遊女に言われ、となりの年若い遊女に目をやりながら、

「おう、生娘だと、どの客にもそう言うのであろう、ははは」

上機嫌で言った大助は、手にした杯をぽとりと落とし、茫然となった。

 新入りは、自分の娘。ときの工面というのは娘を売った金だった。    

 

第十一話 霜の声

 

 ──では、お待ちしておりますんで。

 未智は床のなかで目が覚めると、すぐにその言葉を思いだしていた。

 十日まえから、その言葉をなんど反芻してきたことだろう。そして、それよりもさらに何か月もまえから、その言葉をどれほど待ったころだろう。

雨戸の隙間からもれる光は明るく、晴れであろうと思われた。

 寝間着のまま廊下に出て、雨戸を細めに開けて外を見る。きらきらした陽光が戸外にあふれている。晩秋にしてはまぶしいくらいだ。冷気が光を透明にしており、するどく眼につき刺さってくる。

 ほんとは、きょうのような日は曇っているくらいがいい。わたしは悪いことをするのだから。

 ──星のささやきって、ごぞんじですか。はるか、おろしあの北の果てでは、うんと寒くなると氷の霧が出て、町じゅうが乳色になるそうです。いいえ、あの霧とはちがいます。もっと寒いと、人の吐く息さえ凍ってしまい、かすかな音になって耳に届くそうです。その土地の人たちは、これを星のささやき、と言っているのだそうです。

 ──とても寒そうだけれど、いちど聞いてみたいものね。

──霜の声は? 霜ができるとき音がするんです。

 ──踏みつけたときの音じゃなくて?

 ──踏みつけたときじゃありません。雪の降りはじめの場所があるように、霜のできるとき音がするんです。

 

そんな会話をしたのが、何か月もまえのことだった。

「どうしたんだ」後ろで光蔵の声がした。

 はっとして振りかえる。まだ眠っているとばかり思っていたのだ。光蔵が雨戸からもれる光に目をしばたたかせながら、未智の背中をじっと見ていた。ずっと眺めていたのだろうか。自分の考えを見透かされたような気がしたが、なにげなく答えた。

「天気がどうかなと思って」

「どこか出かけるのか」

「いいえ」嘘をついていた。「どうして」嘘をかくすために逆にたずねる。

「天気なんか気にしているからだよ」

「だって、洗濯物がたまってますから」

 また、嘘をついていた。このところ晴天続きで残っている物はなにもないし、意識して家の中を片づけてきたから、冬じたくもすんでいる。

「子どもたちを起こさなくちゃ」

 表情を覚られまいと手早く着替え、そそくさと廊下に出る。子どもたちの寝間の襖を開けた。

「さあ、起きなさい。これを着て」

 五歳と六歳の子どもたちがもぞもぞと布団から顔を出した。

「わあ、あたらしい着物だあ。きょうはおばあちゃんちへ行くの」

 府中にある未智の実家へ行くときは、いつも新しい衣服を着せるので、そう思ったらしい。

「ううん、寒くなったからよ」

 また、嘘をついている。そう思いながら、顔がかすかに強張るような気がした。白粉を初めてぬったときのような、凍った金具に手を触れたときのような、うすい霜が自分の顔に張りついている。

 井戸端へ行き、顔を洗うと、その霜のような感じは溶けていった。

 

 子どもたちは手習所に出かけた。めずらしくゆっくり煙草をふかしていた光蔵を、いらいらする思いで待ったが、ようやく出かけていった。

出口まで見送って、腰高障子が閉まるやいなや、未智は寝間に駆けこんだ。箪笥の奥に隠しておいた晴れ着一式を取りだす。襦袢も腰巻きも新しい。帯も念入りに結ぶつもりだったが、したくの時間が足りない。それでも、いつもより念入りに襟を抜いた。

 雪の降りはじめの場所も、霜の声も、言葉の綾にすぎないことは、もちろん承知している。きょうこそ行くところまで行ってしまうにちがいない。そんな確信があった。

 着替え終わると、鏡に映る自分の姿に満足した。未智、きょうは別嬪ね、と自分にささやいていると、入口の腰高障子を開ける音がした。姑の家の小僧だ。

「なあに」襖のかげに身をひそめたまま、返事をする。

「おかみさんが、きょうのお昼に歌の会をすることになって、急な話で申しわけないが、ちょっとお手伝いに来てほしい、ということですが」

「きょうは、琴の友だちと約束があって行けませんと、お姑さまにはよろしく伝えておくれ」

 もちろん嘘だった。

「あれ、途中で旦那さんと鉢合わせしまして、きょうは出かけないとお聞きしましたが」

 小僧は意地悪でもなんでもなく、襖のかげにいる未智に声を張りあげた。

「いいえ、出かけてから使いがきたの。いま支度の最中だからごめんなさいよ」

 これも、嘘だ。

 顔に霜のつく感じが、またしはじめていた。洗って化粧をし直す時間はなかった。頬を手でかるくたたくと、霜は消えていた。

 出ようとして、戸口の鍵をかけているとき、隣のおかみが声をかけてきた。

「あら、お未智さん、おめかしね。おきれいですよ。どちらへ」

「ええ、あの、ちょっと実家まで」

 嘘ばっかり。

 わたしって、かなり嘘つきだったんだ。朝起きてから短い間に、こんなになんども嘘をついたのは、生まれてはじめてだ。しかもとても上手に。そう思うと、朝の霜がさっきより厚くなってきたような気がした。歩きながら、頬をピタピタとたたいてみる。少しよくなったような気がしたが、ひんやりした強張りは、すっかりは消えなかった。

 

 待ち合わせ場所は室町通りにある三井越後屋である。江戸一番の大店で駿河町沿いは間口が何間もあり、大勢の客が出たり入ったりするので、かえって目立たないと考えたのだ。

 隅のほうの暖簾のかげに腰掛け、数本の反物を出してもらい、買い迷っているふりをする。

「あら、お未智さんじゃなくて」

 ふいに声をかけられて振り向くと、娘のころ琴の稽古で一緒になった昔の友だちだった。

 また、いくつもの嘘をついた。

 顔の強張りがはげしく、笑っていても笑顔になっていないのではないか、顔がゆがんでいるのではないかと思えた。

 友だちが去ると、手鏡をそっと取りだす。顔はますます冷たくなり、肌には霜が隠しようがないほど浮き出ている気がした。しかし、鏡に映った顔はべつになんの変わりもなかった。

 鏡をしまい、力なく腰掛けなおし、また反物を見るふりをした。

 

夫以外の男に恋をし、誘われて、何か月も考え通したあげく、やっと決心して出てきたのだ。もしだれかに知られたら、そのまま家を出る覚悟である。だから、子どもたちの衣服も新しいのに取り替えてきたし、何か月もかかって家の中をきれいにしてきた。光蔵を傷つけたり家庭を壊したりは、ほんとはしたくない。見つかりたくない。

 だから、朝起きてから半日もたってないのに、どれだけ嘘をついてきたことだろう。

 もし見つからなかったら、これからは、もっとたくさんの嘘をついていかなければならない。そのたびに顔の霜は厚く降りつもり、霜のついたお面をかぶって暮らしていくことになる。

 向こうのほうから、客のあいだをぬって男がやってきた。まだこちらに気づいていないようだ。

 未智は手提げを取りあげると、急いでその場を離れた。そして外の通りへ出た。男とは反対方向に歩んだ。顔に降りつもった霜は、明るい陽光のもとで、溶けながらかすかな音をたてた。

 未智は、霜の声を聞いたと思った。

 

第十話 黒 髪

 

「別れてくれないか」

 聡之助は思いきって口にした。

 諾でも否でもなく無言のままの女は、終始うつむいているので顔が見えない。結いかたはいいかげんだが見事な黒髪だけが目に入る。別れたくないという感情を抑えるため返事もできないのか。

 部屋住みの気楽さで、聡之助も人並みにいろいろな女とつき合ってきた。情が深そうで面倒なことになると予想していた女が、別れる段になると、けっこういさぎよかったりして拍子抜けすることもあった。

 目のまえの穏和そうな女のほうが、いっそ手こずるかもしれぬという考えがよぎった。

 女はうつむいたまま、

「承知いたしました」と消えいりそうな声で言った。

 その声にも、怨みがふくまれているのか、割り切っているのか、なにも表れていない。それがかえって気になる。こういう女はほんとは苦手なはずだった。

 

 もともと、そんなつもりはなかった。

大気がじっとりして、一日じゅう温気(うんき)がこもり、夕暮れともなると物の形も定かに見えないような日だった。女が裏庭で髪を洗っており、そのみどりなす黒い流れとうなじの白さに、ほんのいっしゅん魅入られただけだ。

 母屋の兄のところで話しこみ、酒が過ぎたせいもある。部屋からの灯りで女のうなじが庭の闇に浮いていた。通りすがりに見ただけのはずだった。

 しかし髪を拭きながらくる女と、廊下ですれちがいざまその手を握っていた。そのまま自分の部屋である離れへ引っ張っていった。女はひんやりした濡れ髪のままなだれこんできた。

 それから二年、部屋住みのままなら、妻にしてもよいとは思っていた。突きはなそうとしても、なおからみついてくる情を感じて、つづいていたのだ。

 ところが当主である兄が急死した。子はまだいなかった。

家禄は二千石、旗本としては大身のほうである。聡之助が家督を継ぐことになった。こうなると、兄のところの下働きである女を妻に据えるわけにいかない。

 跡目の挨拶に上様にお目見えした折りにも、

「そこもとは、まだ妻を娶ってないと聞いておる。ちょうどよい家格の娘がおるゆえ、早々に式を挙げるがよい」とじきじきのお声がかりもあった。

「は、ありがたき幸せにございまする」と、なんのためらいもなく答えていた。

 そのへんの事情を女はよく心得ているはずだった。面倒なことが起きてはまずいと、当主となった聡之助は、いちばん先にひまをとらせた。

 屋敷を去るまえ、女は「ひとつだけお願いがございます」と言い、湯呑み茶碗を持ってきた。

「ああ、いいとも」

 女が意外に素直に下がってくれるので、聡之助は気分よく返事をした。

「これをわたくしとお思いになって、おそばに置いてくださいませ」

「なんじゃ」

“じゃ”というのは旗本言葉である。だいぶ板についてきた。

 湯呑みの中をのぞくと、みどり色をした丸いものが水に浮かんでいる。

「なんじゃ、これは」

「毬藻でございます」

「これが藻か、おもしろい形をしておるの」

「これをお殿さまが可愛いがっておられます金魚鉢にでも浮かせてやってくださいませんか」

 廊下の端に大きな水鉢が置いてある。友人からもらった金魚を飼うため、龍閑川にかかる今川橋近くの瀬戸物問屋で求めたものである。

「金魚に食べられやせんか」

「いいえ、これはそんなことはございません」めずらしく強い調子で女は否定した。

「じゃ、入れていくがよい」

 なんともつつましい願いではないかと思った。

 

 金魚鉢は母屋の廊下へ運ばれ、花嫁も夜のいとなみにも慣れてきたころだった。

 聡之助は鉢に浮いている毬藻がずいぶんと大きくなっているのに気づいて驚いた。二尺ほどの大きさの鉢には数匹の金魚のほか、蓮の葉を浮かべたりしていたが、いまや茶碗ほどになっている。

 後家人には、花や植木を栽培したり、金魚や鯉を育てたりを内職にしている者が多い。聡之助はそんな配下の者に見てもらった。

「毬藻とはめずらしゅうございます。これは蝦夷の奥地か奥羽の端の湖にしか生息できませぬが」

「それでは、この鉢にあるものはなんだ」

「たしかに毬藻と存じますが、いかにも成長が早うございます」と首をかしげて帰って行った。

 その後も、毬藻はどんどん大きくなり、人の頭ほどになっていく。

 ──気味がわるいな、捨てるか。

 そう思わないでもなかったが、むやみに捨てたりしたら、なにか怨みをかいそうな気がして、できなかった。

 ある夜──初めて女の黒髪に目をとめたときと同じように空気のじっとりした夜──聡之助が鉢のそばを通りかかったとき、毬藻の形がゆるゆるとくずれはじめた。くずれた糸様の藻は、気づくと長い黒髪となって鉢からこぼれてきた。

 こぼれた黒髪はうねうねと近づいてくると、聡之助にからみついてきた。悲鳴をあげるひまもなくつつみこまれ、全身をくるまれてしまった。

 すべてをくるみ終えると黒髪は毬藻にもどり、もとの大きさ、女が聡之助に渡したときの小ささにちぢんでいった。

 

 やがて水鉢から腐ったにおいがするようになった。

「なんだか不吉だこと。捨てておしまい」

 聡之助の子を抱きながら、新妻は言った。なぜかわからないが、行方知れずになった夫と関わりがあるような気がしたのである。

 捨てられた毬藻は溝を這い、川へ落ち、海へと出、親潮に乗り、北へ北へと流れていった。

 さらにまた川をさかのぼり、小川をつたい、とうとう蝦夷の湖に着いた。

 その水中には、嫉妬にからめとられた男たちが、無数に浮きしずみしているという。

 

第九話 屋根裏の住人

 

 新築の家ができ上がった。場所は、室町二丁目と品川町入口の角である。

 棟上げしたのは、十軒店で雛人形の売り出しをしていたころだから、それから半年経っていた。

 重陽の節句の日、木屋九兵衛一家は、新居に移った。

 一階は、塗物・漆器の問屋である間口七間半の大店である。奥に、使用人たちのいる小部屋がいくつかと台所がある。

 まあたらしい階段をあがると、二階は家族の居室、座敷と仏間で、五つともひろびろとしている。

 九兵衛は帳簿付けを終えて二階へ上がり、外を眺める。天井を高めにつくったので眺望にも満足していた。暗くなった通りの向こう、黒い家並みに灯りがちらちらするのを眺めるのも楽しみだ。

 ときには窓枠に座りながらいっぱい引っかける。となりの部屋では三人の子どもたちが、その向こうには九兵衛の親たちが、すやすやと眠っている。

「やっぱり天井を高くしたのがいいねえ」と女房に声をかけた。

「ほんと、ひろびろしてますよ。でも…」

 女房は浮かない顔をしている。

「なんだ、まだ気にしてるのか」

「いえ、そのことじゃありませんのさ。なにかおかしいんですよ。ただわたしの頭がおかしいなんて言われるのが嫌で黙っていたんだけれど、でも……」

「でも、なにがあるんだ」

 昼間、九兵衛が商売のため階下に降り、子どもたちも手習い所に行って、静かになると足音が聞こえてくるという。

「それも上からなんですよ」

「上から?」

 女房は真剣な顔をしてうなずく。

「ここは二階でしょう、聞こえるはずないじゃありませんか、それなのに……」

 部屋で縫い物をしていると、パタパタとはたきを使う音が聞こえたり、廊下を幼い子が走る音がする。座敷では、経を詠むお婆さんの声がしたり、どうしても、三階があって上に人が住んでいるような気がする。

「新しい家っつうのは妙な音が聞こえたりするらしいぜ。だから、上に人が住んでいるような気がするったって、それは、どこかの木材がきしんだりしている音だよ」

「そうじゃない。ほんとに人が上に住んでる……いつもというわけじゃないけどさ」

「神経じゃないのか。引っ越しでおまえは疲れているんだよ」

「そうですかねえ」

 数日過ぎても、女房の顔が晴れないので、九兵衛は屋根裏にだれかひそんでいるかもしれないと考え、番頭や丁稚に調べさせた。

「なにもありませんでしたよ」と丁稚が言い、

「できたてですもん、埃ひとつありやせんや」と番頭も口を添えた。「きれいなもんです。あたくしが寝られるくらいで……おう、おめえの寝床、明日からあそこにしねえ」と丁稚をからかった。

 親たちにも尋ねてみたが、年老いて耳が遠いせいか、なにも聞こえないと言った。

 

 さらに数日が経ち、九兵衛は風邪を引いた。店は使用人たちにまかせ、二階で休んでいた。午後になってすこし熱も下がったので、看病していた女房は八百屋への買い物に下りていった。

 天下一にぎわう大通りである。いつもはその賑わいのなかに身を置いていたが、遠く近くにそれを聞きながら、九兵衛は寝床でうつらうつらしていた。

 女たちの話す声がかすかに聞こえてきた。けたたましい笑い声や叫ぶ声もする。女房が帰ってきて、裏口で近所のかみさんとしゃべっているのかと思いながら、はっと目を覚ますと、階下はしんとしている。

 しかし、女たちの話し声はまだ続いている。九兵衛は起きあがり、階段のところまで行った。下をうかがってみると、裏口にはだれもいない。それなのに、話し声だけは依然として聞こえてくる。

 熱のせいだ。そう決めつけて寝床へもどろうとすると、頭上でトントンと子どもの走りまわる音がする。九兵衛はぎょっとなって立ち止まった。

 幼い子どもたちがパタパタと駆けまわったり、窓枠や机の上からか、飛び下りるときの音もする。それも天井裏というより、その上からである。障子や襖を開け閉てする音も聞こえる。

 九兵衛は気味が悪くなったが、布団をかぶって、そのまま寝てしまった。

 

 元気になっても、それは続いた。女房はひとりで二階にいることを嫌がるようになった。

 そうしたある日、地震が起きた。昼間の時刻で大事にはいたらなかった。

 そのことで、九兵衛には思いだすことがあった。

 三年近くまえのことになるので、すっかり忘れていたのだ。

 家の新築の話は三年まえから出ていた。そのころは三階建てにするつもりで、少し小さめだが、三階は女房の遠縁の者に貸すつもりで、約束もしていた。

 ところが、その家族が親を連れに本荘の実家に帰省中、象潟(きさがた)の大地震が起きた。一家は潰れた家屋の下敷きになって全滅した。幕府は二千両を本荘藩に貸与し、九兵衛自身も百両の寄附をした。

 そんな事情があったうえに裏手の家から、三階建ては日陰が多くなるから困る、もっと低くしてくれという文句が入ってきた。

 それで九兵衛は、二階建てにすることにした。建ちをそっくり低くするのも業腹だったので、ふつうより天井の高い二階建てにしたのだ。

「そう言えば、あの家族、この家に入るのを楽しみにしていたなあ」

 女房とふたりで仏壇に手を合わせ、あらためて、地震で亡くなった家族の冥福を祈った。

「そうですよ、きっと。ここで暮らすのを楽しみにしてましたから。たぶん……いっしょに暮らしてるんですよ」

「そうだな」

 ともに暮らしているのだと思えば、物音は気にならなくなった。

 そして、数ヶ月が経ち、ふと気づくと、いつの間にか音はしなくなっていた。

 

第八話 不機嫌な虹

 

「さあ、ここから先は八百屋さんのてまえで左に曲がるんだよ」

 おっかさんが言って、おいらの背中をたたいた。いつもはぽんとはたくだけだが、機嫌が悪いときは痛いほどどやしつけられる。きょうも、どかんと叩かれた。

「いてっ」と叫ぶと、もっと叩かれるので口に呑みこみ、

「うん、八百屋さんとこで左だね」と言うなり駆けだした。

 おいらは、もうじき十九になる。弟や妹は十二、三で奉公に出たけど、おいらがなにもできないので、おっかさんは苦労しているんだそうだ。苦労って、よくわかんねえけど、おっかさんがいつも不機嫌なのは、きっと苦労のせいだ。

 おいらは忘れないように「八百屋さんで左、八百屋さんで左」と唱えながら行く。

 八百屋のてまえを左に曲がると笠屋があり、その二階の手習い所へ毎日通うんだ。

 みんなは、おいらのことバカだ、阿呆だというけど、手習い所のお師匠さんだけは、おいらはほんとはとても頭がいいって言う。

 おいらは『論語』の一万二千字、『孟子』の三万四千六百八十五字など、ぜんぶ暗記できる。どんなに有能な大名や家臣でも、そんなに覚えられるもんはいないって、お師匠さんは言ってくれる。

 算学が特にできるが、算盤程度しか知らない世間の人は、おまえのできのよさがわからない、学問吟味も合格するに決まっているが、お武家の子息しか受けることができないから残念だとも。

 

 手習い所にいると、おいらはいちばん安心する。お師匠さんの命じるままに、墨をすったり、紙をみんなに配ったり、お手本を読本箱から出したり、ときには『中庸』のどこそこを、みんなのまえで暗誦してみせたりする。

「みんな、目をつむってよく聞くんだぞ」

 とお師匠さんは言うが、おいらの暗誦を聞いている子はいない。ときどき注意されるが、きょうもガキ大将の庄ちゃんが落ち着かず、みんなの机の周りを走り回る。

 みんなの清書(きよがき)に朱を入れていたお師匠さんは、

「庄吉、棒満の罰だ」と指さした。

 棒満というのは、机の上に立たされ、火のついた線香と湯呑みを持たされることだ。線香が終わるまでじっと立っていなければならない。

 帰りしな、下駄をはくときに庄吉といっしょになった。庄吉はまだ腹の虫がおさまらないらしく、なんだよと、ねめつけ、おいらよりずっと小さいくせに小突いてくる。

「暗誦するときは静かにしてなきゃいけないんだぞ」と言ってやった。

「ふん、バカが、えらそうに」

「おいらはバカじゃない」

「バカだよ。いくら暗(そら)で言えても、あいつは意味がわかってないって、お師匠さんが言ってたぞ。おめえは足りねえんだよ」

「うそだ、バカじゃない。おいらはバカじゃない」

 と叫んだけれども、庄吉以外の子どもたちもバカだとはやし立てた。

「なにを騒いでいる。さっさと帰りなさい」

 お師匠さんが階段の上から言ったので、みんなは逃げていった。

「おまえも帰りなさい。八百屋さんのところで右だぞ」とお師匠さんが注意してくれた。

 

 夕飯のときも、おまえは足りないんだという庄吉の言葉が気になってしようがなかった。

「ほら、さっさとお食べ」とおっかさんがとげとげした声で言った。

 その声に、おいらは茶碗と箸を置いて立ち上がった。

腕をひろげて、ぐるぐると体を回す。頭も回る。ぐるぐる、ぐるぐる……そうやると、おいらの頭の足りない部分が満ちてくるような気がするんだ。

「また、はじまった。やめな、おやめ!」とおっかさんが怒鳴る。

 そう言われても、ぐるぐる回りは止まらない。

「もぉ。おまえみたいなもんは出ておいき。ほら、出ていけ」

 おいらは家を飛びだした。夕立が降りだしていて、遠くで雷も鳴っていた。雨足が強くなり、女の人は悲鳴をあげながら軒下に避難する。あたりは暗くなり、ときどき思いだしたように、遠くの空が光った。

 おいらはずぶ濡れになりながらも、足りないんだ、足りないんだ、と繰りかえした。

 いっぱい歩いたような気もするし、少ししか歩かなかったような気もする。

 ふと気づくと、おいらは土手の樹の下にうずくまっていた。長いあいだ、そうしていたような気もするし、少しだけのような気もする。

「やっぱりここにいたか」

 その声に振りあおぐと、尻っぱしょりをしたお師匠さんが笑っていた。すぼめた傘を手にしていて、その傘からは滴がしたたり落ちている。

 雨はやんで、いつの間にか空は晴れていた。

 お師匠さんは尻っぱしょりの裾を下ろしながら「おっかさんが心配してるぞ」と言った。

 おいらが立ち上がったとき、空に大きな虹があらわれた。

「虹だ、虹だ」どこからともなくそんな声が聞こえてくる。

「ほう、ここまでくると、虹も大きゅう見えるな」とお師匠さんも言った。

 川の向こうにかかる虹の橋は、家いえの屋根に綺麗で大きなふたをして、人びとの暮らしに禍いがおよばないようにしているみたいだ。

「おっかさんはな」とお師匠さんがつぶやくように言った。

「おまえのことが毎日、心配で心配でたまらないのだ」

「おいらの頭が足りないからかの」

「足りないなんて、だれが言った」とお師匠さんはいっしゅんきっとなったが、すぐに声をやわらげた。「足りなくなんかない。人はそう言うかしらぬが、あり余りすぎていると、わしは思うている」

「じゃ、ぐるぐる回りなんかしたら、おいらの知恵は吹きとんじゃうかな」

「あはは、そうだ。ぐるぐる回りは無駄なことだ。もったいないし、おっかさんを困らせるだけだ」

「おっかさんは困るのか、おいらがぐるぐる回りすると」

「そりゃ、困っているさ。おっかさんも人の子だ。いつも不機嫌なのは、いつもおまえのことを気にかけておるからだよ。朝、目が覚めると、おまえのことを考える。おまえがいるから、きょうも生きようと思う。どこのおっかさんも子どものことはそう思うだろう。しかし、おまえのおっかさんは、毎朝、自分の心に虹をかけて起きるのだ」

「自分の心にあんな大きな虹をかけるのは大変だね」とおいらは言った。

 お師匠さんは深くうなずきながら「そのとおりだ。うまくかけられる日もあれば、かけられない日もあるだろう。さあ、濡れたままだと風邪をひく。おっかさんが乾いた衣服を持ってきておる」

「ふんどしも濡れちゃったよ」

「ああ、ふんどしもある」

 二階に手習い所のある笠屋の入口で、おっかさんがそわそわしながら待っていた。

「このバカ、どこ行ってたんだよ」と、いつものようにおいらをぶった。

 そのとき、おいらは気づいた。おっかさんて、おいらよりこんなに小さかったんだと。

 それから、おっかさんの目の周りが疲れて黒ずんでいるのに気づいた。扇子売りの商いから帰ってくると、毎晩遅くまで扇子貼りの内職をしているからだ。

 その黒ずみが、お師匠さんの言う虹かもしれないと思った。

 

第七話 思い出 筺

 

 その廊下は、家士たちのあいだで“泪橋”と呼ばれていた。重役たちの御用部屋へ行く渡り廊下のことである。

 御用部屋へ行く者は、失策をおかしたり、期限つきの御用に間に合わなかったりで、ほとんどが小言か叱責をくらうためによばれる。お褒めの言葉をもらうことはまずない。

 したがって、帰りは泪にくれつつ渡ることになるので、ひそかに泪橋と言われていた。自分のしでかした事ならまだしも、上士の尻ぬぐいを押しつけられ、我が身の落ち度とされることもある。その悔しさには、渡り廊下の先にある厠まで待ちきれずに、泪が落ちこぼれるという。

 弥之助も、いま物書部屋へもどるため肩を落として泪橋をわたっていた。他家との稟議書を風呂敷に包んだまま、どこかに置き忘れてしまったのだ。

「よいか。及ぶかぎり速やかに、紛失した稟議書の中身を思いだして書き留めておけ。とは言っても、そちにはしょせん無理であろうの。今回は見逃してつかわすが、再度このような事があれば、家禄の引き下げもありと覚悟せい」

 先代のときに家禄の引き下げがすでにあった。御家の内情も年々厳しいらしく、重役たちは、節約・倹約を口実に、なにかと家録引き下げを口にするようになっている。ここでまた弥之助の代で引き下げがあったら、下の息子は商いでも学ばせるしかない。

 物書部屋に戻り、なんとか思いだそうとしてみた。半刻ばかり机のまえで筆を持ってみたが、無駄であった。墨だけがむやみにすりへっていた。 

 

 朋輩たちの、同情とともにちらりとのぞくうれしげな目を背にして、物書部屋を出た。

 上士のせいでもだれのせいでもなく、まことにおのれ自身の過ちであった。だれかのせいにして呪うことすらできない。

 まっすぐ家へ帰る気にもなれず、気づくと、瀬戸物町入口辺りを歩いていた。室町通りの賑わいと混雑に身をゆだねることで、おのれの愚かさを消してしまいたかった。

 その混雑のなかで、通りの東側にある高嶋屋のまえの行列が、ふと目に入った。

「並んでください、割りこみはご遠慮くださいまし」と叫びながら丁稚が走り回っている。

 ──思い出筺か。

 それは、女子どもたちのあいだで、もてはやされていた。

 手文庫を小さくしたような筺が、細工物を作る高嶋屋で売りだされた。その筺に思い出につながるものを入れておけば、その筺を開けたとき、記憶がまざまざとよみがえるのだという。

 女子ども相手だから、どうせ恋文とか、赤児を亡くした親が産着を入れたり、後家が亭主の好んだ煙草をしのばせたりして、折りにふれ筺を開けてみては思いだしているらしい。

 ──くだらない。いつまでも執着しているべきではない。

 そんなことを考えながら、高嶋屋のまえを通りすぎようとして、弥之助は、はたと立ち止まった。あることがひらめいたのである。

 急いで行列の後ろに並び、半刻ほどのちに筺をひとつ求めた。大した細工もしておらず、派手な千代紙を貼りつけただけの安っぽい物だった。値段も高くはなかった。

 自分の思いつきを早く確かめたくて、躍るような足取りで帰宅した。

 家に帰り、風呂敷包みから取りだすと、机の上に置いてみた。それから、部屋を見回し、たまたまあった伯父からの書簡を入れてみた。ふたをする。

 目をつむってみた。思いだせない。もちろん要点は覚えているが、それ以上に詳しいことは思い浮かばなかった。

 なんだ、こんな物。やはりいんちきだ。娘にでもやるか。

 伯父からの便りを取りだそうと、ふたを開けたとたん、まざまざとその文章全体が頭に浮かんできた。巻紙の隅についた薄い染みまでよみがえってくる。

 筺から巻紙を取りだして脇に置いてみた。そして筺にふたをした。狭い庭に下りたち、しばらく歩きまわった。

 それからのち筺のふたを開けた。便りはもう入れてない。しかし思いだせた、なにもかも。

 やったぞ!

 弥之助の頭にひらめいたのは、執務であつかう文書をその筺に入れてみれば、もう忘れないのでは、と考えたのである。

 ひと晩たち、翌朝も試してみた。ふたを開ける。思いだせた、全部。

 この筺は一度入れたら、取りだしたあともしっかり記憶に残るのだ。

 さっそくその筺を風呂敷に包んで、お屋敷に出勤し、物書部屋に持ちこんだ。稟議書や評定書、あるいは字の下手な上士に言いつけられた清書など、できあがると、いったんは筺に入れてから提出した。

 万事だいじょうぶであった。筺を開けて念じさえすれば、入れたことのある文書の内容はすべて思いだすことができた。

 入れては取りだすので、筺はいつも空っぽのはずであったが、それなりに限度があるようで、一か月もすると新しい物が入らなくなった。入れようとしても、満杯だと言わんばかりに、ふたを被せることができなくなった。

 すこし思案したのち、弥之助は高嶋屋へ行き、別の筺を買ってきた。

 月日が経つにつれ、筺は、いつつ、むっつと増えていった。

 そのころには、弥之助は物覚えがよいという評判が、お屋敷内で立つようになった。こうなると、どんな小さなお留め書きでも、覚え書きでも、入れずにはすまなくなった。そのうち私事の書簡でもなんでも、書いたものはすべて入れなければ心配でならなくなった。

 

 二年たち、三年たつうちに、筺は増えつづけ、座敷の飾り棚や床の間だけではすまず、押入までいっぱいになってきた。

 家じゅうが筺であふれかえり、狭くなるいっぽうである。物置を作ろうにも、拝領した家のため勝手な建て増しはできない。弥之助に万一のことがあったら、この家は返納することになる。

 古い、要らなくなった筺を燃やすなり、捨てるなりすればよいのだが、それも不安だった。なにせ三、四年前のことでも上士に尋ねられ、翌日にはすらすら答えることができるので、上士のお覚えもめでたいのだ。

 なにひとつ、おろそかにできなかった。

 弥之助は、日々、筺の始末に頭を悩ませつつも、高嶋屋で新しい筺を買いつづけ、不安にかられては筺を満杯にしていった。家じゅうが筺だらけで足の踏み場もなくなってきた。

 とうとうある日、「明日はおいとまさせていただきます。筺だらけの家に住むことはできません」と女房から、宣言された。

 その夜、筺をなんとかしなければと考え、よぉし、明日こそは、古い物の半分は燃やそう、始末しようと決心した。女房が出て行くまえに。

 そんなことを考えていると、近くの筺のふたが宙に浮いてひとりでに開いた。そこから文字が躍り出てきて、弥之助に寄りそってくる。頭のなかは筺に入っていた言葉や文字でいっぱいになる。

 急いで首を振り、はねのけようとしたが、つぎの筺のふたが開き、また弥之助を取り囲んだ。仮名はほとんどなく、漢字ばかりである。漢字という漢字が弥之助の身体にくっついてくる。なかには重役たちの赤い花押もあった。漢字は弥之助にしがみつき、絡み、それはどんどん重く、身体にのしかかってくる。目、鼻、口、耳などの穴のなかにも入りこみ、喉のまわりを締めつけてくる。しまいに弥之助は息もできなくなった。

 やめてくれ。

 叫ぼうとしたが、声も出なかった。

 

 翌朝、弥之助を起こしにきた女房は、夫が崩れた筺の山のなかで息絶えているのを知った。

 昨夜はかすかな地震があったことを女房は思いだし、急いで筺を取りのけたが、手遅れだった。奇妙だったのは、筺はどれも空っぽで、身体の上に山積みになったとしても死ぬような重さでないこと、筺のふたがどれも開いていたことだった。 

 

第六話 四十雀

 

 陽ざしの明るい、あたたかな日だった。

 今川橋まえの店番を手代にまかせ、木助は奥の二階で一服していた。五十過ぎてのやもめ暮らし。 その無聊(ぶりょう)さに、となりの裏庭を見下ろした。

 庭では、隣家の娘が洗濯物を干している。青葉がうつるのか、その顔も手もどこか蒼じろい。娘 は労咳を病んでいた。ひごろは臥せっていることが多いのだが、初夏の陽気に誘われて、洗濯のひ とつもする気になったのだろう。

 水仕事などしていいのかいと、胸の奥でつぶやきながら、

「いい陽気だねえ」

 木助は二階の手すりにもたれたまま声をかけた。

 娘ははっと木助に気づくと、あわてて唇に指をたて、しっ、と言った。

 それから売子(えご)の樹の梢を指した。 隣家の裏庭には大きな売子の樹があり、白いちいさな花が満開である。陽ざしのあたるところでは雪のようにかがやき、梢の陰ではひっそり咲いている。

 蒼じろい指が示すその花の梢のあいだに鳥が巣をつくっていた。

 おや、いつの間に── 雛が孵ったばかりのようだ。羽の水浅葱色が美しく、白いほほの目立つ親鳥が、巣のまわりをしきりにばたばたしている。

 ──そうだったのか。

 声には出さず、口だけで相づちを打った。

 ──シジュウカラよ。

 娘も声には出さず、口まねで言うと、うれしそうになんどもうなずいた。

 そうか、四十雀か。

 うなずきかえしたとき、裏庭の木戸がぱっと開けられ、ぼろをまとった裸足の子どもたちがどやどや入ってきた。

「鳥が卵を産んでんだ。採って食おうぜ」

 ひとりが指さし、ほかの者たちが白い小花の梢を見上げる。

「あ、あそこだ」

 棒を手にした者が下から巣をつつこうとするが、いますこしとどかない。

 親鳥が巣の周りを飛びつつ、ツッツッチー、ツピチ、ツピチと、威嚇しながら跳ねまわる。

 ──やめんか。

 怒鳴りたいのをぐっと呑みこんだ。巣は木助に近い。

 下にいる娘もはらはらしながら、子どもたちをたしなめることができないでいる。

 あいつら......

 木助は階段を転がり落ちるようにして降りた。

 向こう両国に、家のない者がたむろしている界隈がある。そこには子どもたちもいるが、たいてい親がいない。いつも餓えていて食べ物を探し求め、あるいは銭を拾いに遠征してくるのだ。ゆく ゆくは、かっぱらいや空き巣ねらい、器用であれば掏摸など、ろくな者にはならないガキどもだ。

 縁側を飛び下りる。隣家とのさかいの木戸を開け、となりの庭に飛びこんだ。子どもたちを殴りつけてでも追い払ってやる。

 しかし、すでに遅く、一羽の雛が上から落ちてきた。娘がはっと胸をおさえる。

 あやういところで、いちばん年かさらしい男の子が、両手で受けとめた。

 手のなかを見いった子の眼に、愛しさのようなものがいっしゅんよぎったような気がした。その子は、ついと雛を木助に手わたした。

「こんなちっけえの食ったって、腹がふくれるわけねえ。行こうぜ」

 その声に、ガキたちは、どやどやと出て行った。

 ほっとしたものの、おどろかされた娘は激しく咳こみはじめた。口を手でおさえると、家の中に 駆けこんだ。

 木助は手のなかの雛を見つめた。梯子を持ってくると、樹にたてかけ、上っていった。こっそり 上ったが、それだけでも親鳥はツピチ、ツピチと飛びまわり、つつかれそうだ。

 木助は梢のあいだの巣に雛を置いた。

 梯子を片づけようとしたとき、縁側に娘がいて、かすれた声で言った。

「小父さん、ありがとう」

「いいんだよ。しようがねえガキどもだ。早く床へもどんな」

 隣家の庭には、干された洗濯物が陽ざしにまぶしく照っていた。

 

 それから二か月が経った深夜──

 木助は、隣家から妙なざわめきを聞いた。はてと耳をすませると、さかいの木戸がかすかな音を 立てた。ほどなくトンと縁側に上がる足音。障子を開け、するりと入ってくる黒い影。

 あっちだ、木助さんちだ!

 となりから叫ぶ声がする。

 細くしてあった灯芯をいっぱいにひねると、急に明るくなったのにひるんだ賊は立ちどまった。

頬かむりもしておらず、大人になりきってない子どもの顔が浮かんだ。

 おまえは──と、はっとしたとき、庭がざわめき、大勢の足音がした。

「木助さん、起きてるかい」

「あ、ちょっと待ってくれ」

 うす汚れた顔と手足の子は魔術にでもかかったように、身動きできないでいる。春に四十雀の雛 を渡してくれた子だ。あのとき手のなかを見ていた眼が浮かんだ。

「行け」

 と木助は店先のほうをあごで示した。

 男の子は身をひるがえし、すぐに店のかんぬきを外す音がした。

 それから木助は裏庭の障子を開け、声を張りあげた。

「なにか、あったのかい」

「こそ泥が入ってきやがってよ。こっちへ来たようだったが」

「いや、気づかなかったな」

「明かりが大きくなったぞ」

「そりゃ、おまえさんらが騒がしいから、何事かと思ってさ」

 おかしいな、あの野郎、どこへ逃げやがったんだと、となりの住人たちはてんでにつぶやきなが ら、木戸をくぐって帰っていった。

 木助はとなりの売子の樹を見あげた。

 白い小花が満開だった樹は、いまは薄い柳色の実をさくらんぼのように付けている。家の明かり に照らされ、梢の闇に浮かんでいるのが、空に連なる星のしずくに見えた。

 樹にいた四十雀の親子は、いつの間にかいなくなっていた。小枝やぼろ屑で作られていた巣も、 棲む者がいないと壊れてしまうのか、いまは影も形もない。

 隣家の娘もいないが、かみさんの実家の信州で養生しているということだ。

 よくなって帰ってくるとも。

 それから、あのガキもよくなるとも。

 

 

第五話 陰 膳

 

 さとは、井戸から水を汲みんだ桶を両手に持った。

 大きなお腹には、その重さがこたえる。

 こんな街なかでも、戸外は、そこここに明るい若葉が燃えたっている。敷居をまたぐと、台所の中は真っ暗だった。いっしゅん足をとめ、おもわず目をこらした。

 目が暗さに慣れるまえに、耳のほうに声が入ってきた。

「おさとは、よく働くね、もう産み月なんだろ」とおかみさんの声だ。

 煙草問屋である店のほうから聞こえてくる。

「信助さんに、よほど惚れているのでございますよ」

「そりゃ、けっこうなことだ。信助ってのは、そんなにいい男かい」

「そりゃもう、真面目で頼もしくって、おまけに男前。見ればだれでも口がほころびますとも」

「そんな男ならいちどお目にかかりたいもんだ。おまえ、年がいもなく妬いてるんじゃないかい」

「そうじゃございませんよ。訳ありなので。信助さんには、まえに女房がいたのでございます」

「おさとが追いだしたのかい。こりゃ話が面白くなってきた」

「いいえ、行き方知れずなんでございます。もうかれこれ三年になりますか。信助さんも、はっぽう手をつくして探したようですけれど」

「三年にもなるのかい。それで、おさとが後がまに」

「信助さんも、まだ二十五でございますからね。そうは待っていられませんでしょう。おさとが感心なのは、まえの女房が見つかったり帰ってきたりしたら、すぐに身を引くって言っているのだそうでございます」

「ふん、そうはいくかい」おかみの口ぶりは疑わしそうだった。

「それにね、おさとは毎日陰膳を据えているんでございますよ」

「まえの女房のためにかい。そりゃ感心だ」

「覚悟しながら暮らしてるのでございましょう。帰ってくるまでの束の間でいいからと。性根が可愛いじゃありませんか」

「そうだねえ。でもお腹はだいじょうぶかえ。ここで産婆さんを呼ぶ羽目になったら困るからね」

 さとは、頃合いとみて、わざと音を立ながら、桶の水をかめに注ぎこんだ。

 話し声はぴたりとやんだ。

 水がめがいっぱいになった。それがすむと、きょうの仕事は終わりである。

 裏口から細い路地をつたい、表通りに出る。通町に出るところで二匹の犬がじゃれあっていたので、蹴つまずかないようにした。煙管問屋の店先に顔をだし、あいさつをした。

「おさきにごめんなさいまし」

「ああ、気をつけてお帰り」おかみが言った。

 女手代の姿はなかった。

 

 海辺大工町の家へ帰る途中、ふたりのしていたうわさ話が耳から離れない。

……おまえなんかに、信助さんの気があるわけない。

 むねの言う声がして、またずぶずぶと、過ぎた昔に引きずり落ちていく。

 思いだしたくない。思いだしてはいけない。

 さとは膨らみきった腹のあたりに手をやった。

──信助さんの子がここに宿っているのだもの。

 さとの顔に笑みが浮かんだ。

……助けて、お願い。

 しかし、またむねの声がする。

 亀戸天満宮の藤棚を見に行った帰り道。家にもどるため、横十間川を歩いているときだった。

 あっ、あそこに花がと、むねは土手を降りていく。そしてずぶずぶと川へ落ちていった。

──おむねさんは、信助さんをとったじゃないか。もともとあたしの男(ひと)だったのに。

 むねは大工の棟梁の娘。雇われ大工の信助は棟梁の力に負けただけだ。それでやむなくお嬢さんのむねと一緒になったのだ。

……お願い、信助は返すから。

 差し伸ばされる白い手。とっさにその手をとろうとして気づいた。

 土手の草をつかもうと泥に汚れているが、むっちりとたおやかなことに。信助は、この白さとたおやかさに魅かれたのかもしれない。

 差しだした自分の腕はあさ黒く、すじ張っている。

 さとは、手を伸ばすのをやめた。

 泳げないむねが、濁った水のなかにすっかり隠れるまで、そのまま立ちすくんでいた。

 はっとして人を呼ぼうとしたが、不思議なことに辺りにはだれもいなかった。

 さとは急ぎ足で家へ帰り、周りには、天神さまの境内で、むねとはぐれてしまったと言い張った。

──いくら探しても見つかりませんで、ひょっとしたら、先に帰っているかと思ったのですが。

 日ごろから、無口で穏和なさとの言うことを、だれもが信じた。

 さらに不思議なことに、横十間川に浮くはずのむねの遺体が、いつまでたっても上がらなかった。

 信助も、最初のうちは、ひまさえあると天満宮へ行っては、人混みのなかにむねの姿を探し求めていた。

 やがてそれも間遠になり、三年めには、いつもそばにいるさとに気づいた。

 祝言をあげることもなく、藤づるがほかの樹にからみつくように、信助といっしょに暮らすようになった。その日から、さとは陰膳を据えるはじめた。

「おむねさんが早く帰るといいですね。そしたら、あたしはすぐに身を引きますからね。こうして何日かでも、おまえさんと暮らせるだけでも、幸せなのです。ただ、おむねさんが帰っても、お腹の子だけはいただきますよ。きっとおまえさんにそっくりにちがいありません」

 陰膳は毎日欠かさず据えられ、冷えきった膳の物は、さとが毎日食した。

 

 産み月はとうに過ぎているのに、さとの子が産まれてくる兆しはなかった。

 周りも心配しはじめたある日、さとがのたうちまわって苦しみはじめた。

 信助が走って、産婆を呼んできた。

「こんなに大きくなって。このままでは死んでしまう。早く出さないと」

 産婆があわてふためき、さとをいきませた。

 そのうち産婆が首をかしげはじめた。

 いきんだうえに出てくるのは、食べ物のかけらばかりであった。飯の粒、葱のはしっこ、豆腐のかけら、ひじき、牛蒡など。

 赤児を洗うはずだったたらいには、食べ物の滓が山のように積まれた。

 さとの腹はぺしゃんこになった。

 同時に、岡っ引が駆けこんできて、信助に言った。

「横十間川に遺体が上がったぜ。着ているものからして、おむねさんだよ、あれは」


 

第四話 早急の審議

 

 外は、雨が降っていた。

 朝のうちは、すごい土砂降りだったが、いまはだいぶ小やみになっている。それにしても、陰うつな雨だった。おまけに朝から女房とけんかした。

 明け番にもかかわらず、政之助が勤めさきの上屋敷まで出てきたのは、家にいたくなかったからだ。

 家が安普請で、雨漏りがひどい。そのうち家のなかを傘をさして歩くことになる。親戚のだれかれの名をあげ、修繕の掛かりを工面してこいというのだ。

 政之介は、昨年の四月に史料部屋へ異動になった。

 文書の山と古びた文机のあるかびくさい書庫で、ほかの三人の落ちこぼれといっしょに、古い文献をひっくりかえすのが、おもな仕事である。

 政之助が、その風采のあがらなさと才のなさにもかかわらず、遠い親戚の伝で、西国の大名の上屋敷に勤めることになったのは、もう三十年まえになる。

 自身は江戸者であり、一代限りの、いわゆる現地採用であった。家臣のおおかたは、国許から江戸詰として勤番者がほとんどだ。

 不器用な政之助は、そのお国訛りをお世辞にさえ使うことができない。

 時刻は七つを過ぎている。暮れ六つには、見回り番がきて、かくべつの用がなければ、書庫の鍵を締めにくるだろう。屋敷じゅうがひっそりとしている。

 家には帰りたくない。

 女房の苦労はわかっているつもりである。だから、いままで何年も我慢してきた。そんなに感情の起伏の大きい女ではないから、金がいることもほそぼそとした声で訴えてくる。

「こんな雨のなか、どこへいらっしゃるんです」

 そう言う女房の声を背中に聞きながら、土砂降りの雨のなかを出てきた。

 どこか行きたいところがあるわけではない。どこかへ行きたいとか、遊びたいとか、なになにをしたいという気持ちすら、もう何年もまえに忘れてしまった。何十年も自分を抑えてきたので、自分のなかに、なにかしたいという気持ちがあるのかさえわからない。

 政之助は、外の雨を見ながら、のろのろとしていた。

 廊下に足音がした。見回り番にちがいない。帰る支度をしているふりをする。

「お、ひとり、いたか」

 顔をのぞかせたのは見回り番ではなく、江戸家老だった。急いで居ずまいをただした。

「竹腰どのを見てないか」

 竹腰は留守居役である。対外折衝にあたる役目がら、こんなところに顔をだすはずもない。家老はよほどあわてているようだ。

「急用があってな。連絡を取りたいんだが、そちは竹腰どのの家は知っているかね」

「は、わかるとぞんじますが」

 政之助は江戸者だから土地勘がある。だいたいの見当はつく。

「さっき使いの者を出したんだが、どうもおぼつかない。ちょっと行ってくれないか。六つまでに御用部屋へ来るように伝えてほしい。家にいるはずなんだ」

「はっ、かしこまりました」

 何年ぶりかで、張りのある声が出てきた。

「早急(さっきゅう)の審議だ、かならず伝えてほしい」と家老は声をつよめた。

「はい、六つに御用部屋ですね。わかりました」

 政之助は、新入りのときのように緊張した声で返事をしたが、顔をあげたときには、家老はふつりと消えていた。

 留守居役の住居を調べると、政之助の家からは遠くなるが、どうせひまなからだだ。

 外へ出ると、雨はけっこう強くなっていた。番傘はところどころ穴があいているから肩先をぬらし、綿袴の裾ははしょっていても、すぐにびちょびちょになった。

 近道を行くことにした。軒と軒がくっつくような狭い道路だ。その軒を押しのけるようにして、大きな荷車が行く。

 風が強くなった。

 塀のうえから顔をだしているいじけた樹木が、そのてっぺんあたりを気が狂ったようにふりたてている。上空の厚い雲は、いまにも落ちそうなほど重く、汚れた油紙が道のはしでのたうちまわり、なにもかもがいらいらしていた。

 向こうからきた男の傘と傘がぶつかりあった。あっと思ったとたん、襟首をぐいとつかまれ、ふり向かせられた。左の頬にものすごい衝撃があった。思わずおさえた左手に血がついている。唇が切れたのだ。いきなりだが、けんかをしている暇はない。

 懐紙で唇をおさえ、また歩きだした。傘はよけいに破れていた。

 

 頬のあたりがずきずきしたが、政之助は、ぶじ竹腰の屋敷にたどりついていた。

 入ろうとすると、待っていたように門戸が開いた。そこには出掛ける支度をした竹腰がいて、おどろいた顔をしている。政之助がそこにいることにおどろいたのかと思ったが、腫れあがった顔に目をとめていた。

「あ、あ……ご家老が、六つに、御用部屋で」

 歯ぐきを傷めたらしく、思うように声が出ない。

「ああ、聞いた、聞いた。使いの者が道に迷ったらしくてね。さっき聞いたよ。いまから出かけるところだ」

「早急の審議だそうで」

 竹腰の口のはしに皮肉な笑いが浮かんだ。

 政之助は、出すぎたことを言ったのだと感じた。大事な審議をかれのような下っ端に、かるがるしく口にされたくなかろう。詮索しているような口調になったのか。

「それよりも、その顔はどうしたのだ」

「あ、これは、途中でちょっと」

「はは、女房になぐられたな」

 竹腰は、自分の冗談に高笑いをした。お供しましょうか、という言葉をしりぞけ、待ちかまえていた駕籠に乗りこんだ。

 家へもどる傘のなかで、かれの頬骨はますます痛みをましてきた。頭までずきずきする。

 また今川橋をわたり、日本橋に向かった。牛に引かせた荷車が二台行く。台車には材木が山と積まれている。

 むなしい努力をしたせいか、頭痛のせいか、思考は停滞していた。きょうという日は自分の人生そのもので、さらにちぢんだような気がした。

 にぶった思考は、目のまえの荷車が傾きかけているのに気づかなかった。材木を結んでいた縄がゆるみかけていることも、傘をさしていて見えなかった。

 ただ足ばやに通りすぎようとしただけだった。つぎの瞬間、政之助は転がり落ちてくる材木の下敷きになっていた。

 息絶えるとき、西の空の青いのが目にはいり、傘はもう要らないのだと思った。

 

 竹腰は、六つすぎに船宿がならぶ通りで駕籠をとめさせた。『かわせみ』だの『すみだ川』だのと表示のある行灯型看板がずらりと道脇に出ている。そのうちの『御用部屋』という置き看板の船宿の入り口をくぐったころには、雨はすっかりやんでいた。

「やあ、お待たせしました」竹腰は、すこし叫ぶようにして言った。

「やあ、急なのに、よく来られた」と家老が言った。

「きょうは、鴨狩りだったのでは」竹腰は家老にたずねる。

 ふたりの脳裡には、史料部屋の者が来たことなど、ちらりとよぎりもしなかった。

「そうなのだ。昨夜から君公のお供で下屋敷のほうに泊まりこんでたんだがね。朝からの土砂降りであろ。鴨狩りは中止。下屋敷からの帰りに晴れると聞いてね。君公と上屋敷にもどる途中で悪いことを考えていたのだ」

 みんな笑った。笑ったのは、家老と竹腰と、あとふたり、全部で四人だった。

『御用部屋』のもう一方の外では大川の流れが土手をたたく音がしていた。そこには屋根船がつながれている。

「おそろいなら、そろそろ出ますか」

 四人は、船頭の指示にしたがって、夜釣りの船に乗りこんだ。

 

 

第三話 画仙 菱川松柏 

 

「こ、これは、どういうことでございますか」

 須原屋善兵衛は叫ぶように言った。その手もとには、一幅の肉筆画があった。それを見て驚いたのである。

 相手は今をときめく菱川松柏である。

 善兵衛は通銀(とおりしろがね)町で書肆(しょし)を営んでいる。間口の広い店先では、いま売り出し中の読本作家である曲亭芭金の『珍説雪待月』が飛ぶように売れている。

 隠居した父の跡を継いで三年、父親とは違ったことをやってみたかった。そのため読本や黄表紙を出すだけでなく、曲亭芭金の仕事部屋を浮き世絵にしてみたかった。

 美人画や歌舞伎役者のようには売れはしないだろう。しかし芭金の好事家なら興味をもつにちがいない。それにちょいと値段をふっかけてみよう。

 そう思い立ち、当代随一の絵描きであり、画仙とも呼ばれる菱川松柏に芭金の仕事部屋を描くよう依頼してあった。

 その絵ができあがってきて、善兵衛は驚いたのである。自分の見知っている芭金の部屋とは似ても似つかない。

 芭金の家は深川にあって遠いので、用足しは手代や丁稚にまかせ、一、二度訪れただけであった。引っ越したばかりのその家は真新しく、家具調度もまだ整っていなかった。

 

 それなのに菱川松柏の描いた絵は──家ぜんたいが古びている。

 右手まえには大きな屏風が立っている。床の間には掛け軸が二本下がっていて、大魚の上で見得を切る男や、魚にまたがって剣を振り回している男が描かれていた。

 横の違い棚には花瓶や額皿がざつぜんと置かれており、床には書籍が山と積まれている。『大久保忠隣実記』と表紙にあるのは見たことがある。

 正面にある黒檀の大机には、端渓らしき硯が二つ置いてある。一つはよく使いこまれ、真ん中がすり減って窪んでいる。桧の手文庫には細筆が数十本並んでいる。書くのが早い芭金は、半日で1本の筆を駄目にするという。

 角行灯もあったが、まだ火を灯す時刻ではない。

 机の向こうの障子は開けはなたれ、庭が見える。左手奥に井戸があり、その横に二、三本の竹がすっくと立っている。

 庭の右手、縁先に頭を出しているのは満開の沈丁花であった。源氏窓には明るい陽ざしに照らされた樹木の影が映っている。

 おまけに机のまえに座っているのは芭金ではなく、若い女であった。それも、はっきりと描かれているのではなく、薄墨で縁取りされた後ろ姿である。なんだか幽霊のようでもある。女のうなじだけがとても美しくはっきりしていた。

 絵そのものはよくできていた。春の陽ざしのやわらかいようすや、古びた部屋の風情がそこはかとなく伝わってくる。沈丁花などはその香りまで匂ってくるようだ。

 

 しかし、なにもかも違う。須原屋善兵衛は首をかしげながら言った。

「菱川師匠、これはどちら様のお宅でございましょう」

「おぬしが依頼してきた曲亭芭金の部屋に決まっておろう」

「申しわけございません、あたくしも芭金師匠のお宅へは伺ったことがございますが、これとは違うております。部屋はまだ新しく、こんなに調度などはございませんですが」

「しかし、わしの眼には、こんなふうに映ったのじゃ」

「しかし、これでは……」売り物になりゃしない。「この、ほれ、女の幽霊みたいなのは何者でございます。これではとても」

「とても、とはなんだ」

 絵に文句をつけられた菱川は不機嫌であった。腕組みをしながら、さきほどからそっぽを向いている。「わしの絵にけちをつけて、画代を払わんつもりかの」

「いえ、いえ、とんでもございませぬ。そのようなつもりは……」

 仕方がない。相手は天下の名絵描きだ。機嫌をそこねてはいけない。

 善兵衛は約束どおりの金額を支払った。

 菱川が帰ったあと、絵を眺めなら思案した。絵としては悪くないし、菱川の落款も押されている。べつの口実で裕福なだれかに売りつければ、いくらかは元がとれるかもしれない。いつかなにかの折りに。

 そう考えて、箪笥の抽斗にしまった。善兵衛はそれきり忘れてしまい、絵はしだいに抽斗の奥へ、下へと追いやられるままになった。

 

 それから三十年後──

 須原屋善兵衛は曲亭芭金の家に向かっていた。すでに息子に店をゆずっていたが、完全なる隠居とはいかず、ときどき大事な用などにかり出されることがあった。

 その後、芭金の『里見八魚伝』も大当たりしたから、会うときはほとんど料亭でもてなすことが多かった。ひまある隠居の身、今日はふと芭金の家を訪れようと思いたったのだ。

 春らしく暖かな陽気、うらうらと深川まで歩くのも悪くない。

「ごめんくださいまし」入口で声をかけた。

「はい、どうぞ」と若い女の声がかすかにした。迎えに出てくる気配はない。

「ごめんなさいまし」

 そろりと奥の仕事部屋に向かった。部屋に入るとき、沈丁花の香りがした。

 部屋には、机に向かう女の後ろ姿があり、いっしんに筆を運んでいる。

 それを見て、善兵衛はぞくっとした。

 部屋のようすは、三十年まえ、菱川松柏が描いたとおりだった。屏風の絵も角行灯も、庭の井戸も沈丁花も。

 幽霊のように描かれていた女は生きていた。

「あ、あの、芭金師匠は……」ふるえる声でたずねた。

「いまお出かけですから、お待ちください。申しわけございません、この清書を急いですませねばなりませんので」

 女は振りかえりもせず、うなじだけを見せて言った。

 善兵衛は、息子が話していたことを思いだした。

 最近の曲亭芭金は目が見えなくなり、口述で嫁に書かせていると──

 このとおり描いた菱川松柏は、もうこの世にはいない。画仙には、三十年後の芭金のことが確かに見えていたのだ。

 あの菱川の絵をどこへしまったのだろうと、善兵衛はぼんやりと考えた。


 

 第二話 冬の陽炎

 

 室町三丁目の白粉屋を見たあと、「お七ちゃん、またね」と友だちがあいさつをした。

「またねぇ」あたしもそう言って別れた。

 きょうは、家へ帰ろうかなって思う。もう三日帰ってないし、巾着のなかは、からっけつ。おっかさんの怒った顔を思い浮かべると、気分は重くなる。ふらりふらりと歩いた。

「よっ、べっぴん。なんか買ってあげよか」

 娘ひとりだと思った助平親父から声がかかった。

「なんだよ」と横目でにらみつけてやる。

「おっかねえな、この娘、あぶねえ目つきしてやがる」と逃げていった。

 にぎやかな室町通りを過ぎ、左に曲がって新大橋通りを渡り、延々と歩く。

 やがて、ところどころに畑の広がる田舎の風景。このうんと先にあたしの家がある。

 新しい材木に新しい茅葺きが明るい町並み。この辺りは火つけによる火事が多いそうだ。

 二年ほどまえ、五十近いおとっつぁんが、やっと手に入れた平屋建てだ。

 それまでいた八百屋の二階から引っ越すのは、あたしはいやだった。

 幼な友だちと別れるのも悲しかったし、町ん中のその六畳ひと間のほうが、くつろげた。ひと間に家族五人が住んでいたので、狭くて年じゅうぐちゃぐちゃだった。

 今の家はこぎれいだけど、散らかすとすぐに怒られる。借金を返すため、おとっつぁんもおっかさんも夜遅くまで働くようになった。最初のうちこそ、みんな喜んだけど、親たちはほとんどおらず、家ん中はひんやりしていて、家族みんながいつもふきげんだった。

 あたしは朝御飯まえに近くの踊りのお師匠さんのところへ稽古に行く。御飯がすむと湯屋へ行き、つぎは三味線の稽古だ。

 お午が過ぎると、琴の稽古だけれど、これは近所ではなく、日本橋に近い本小田原町の元のお師匠さんのところへ行く。これはあたしが断固主張した。帰りに今川橋から日本橋にかけての賑わいが楽しめるし、今までの友だちにも会えるからだ。

 親があたしに稽古事をさせるのは、旗本の家にでも奉公させて玉の輿に乗せたいから。

 でも、もう三月もお稽古には行っていない。行くふりをして日本橋あたりで遊び歩いている。費用はお師匠さんへのお月謝だ。

 親に嘘をつくのにも飽きてきたとき、友だちが泊めてくれた。家へ使いを出してくれたが、ほんとは一晩だけのはずだった。それから遊び歩いてずるずると三日が過ぎた。

 おとっつぁんもおっかさんも怒りまくっているだろう。

 

 あたしは町育ちだから、この辺りの畑で、なにを作っているのかさっぱり分からない。今は冬だから、黒々とした土が掘りかえされ、何本もの畝が走っていることだけは分かる。

 ところどころに大木の古いのが佇んで梢を広げていた。畑の向こうに夕方の太陽がぼんやりした光を放っている。あたしは冬の夕暮れの、この寂しい光が大きらい。

 そして、それが現れた。

 はじめは、冬の鈍い陽かと思ったが、それ以上にうすい光が畑にたなびいたかと思うと、もやもやと揺れた。陽炎のようだった。でも、陽炎って、春とか、夏の道路なんかに見られるものじゃないの。

 そう思って目をこらすと、そのもやもやは古い大木の、今は葉を落とした一番下の枝のあたりから地面近くまで、まるで樹の精霊のように、ふわふわと揺れていた。

 陽がしずむと辺りは暗くなった。陽炎も見えなくなったと思ったが、家並みのあるほうの道を曲がっていく。

 暗くなると、その金色は鮮やかで、輝きを放っているように見えた。遠くにゆらめく陽炎は、まえを行く酔っぱらいのすぐ跡を追いかけているようだった。

 その酔っぱらいは、だいぶまえからあたしのまえを歩いていた。だらりだらりと歩き、この人も家に帰りたくなさそうだった。

 陽炎の揺らめきは、しだいに男との距離をちぢめていく。でも酔っぱらいは気づかない。

 男は家に着いたらしい。あたしがいつも通りすぎていたある家の木戸門を開けて、その中に入っていく。陽炎もつづいて入っていく。

「帰ったぜ」という男の声が聞こえた。

 通りすぎてから、なんとなく気になって、その家を振りかえった。

 戸障子のあたりがやけに明るくなった。つぎの瞬間ボッと音がして、家のあちこちから金色の炎が噴きだした。炎はまたたく間に広がり、家を燃やしていく。やがて茅葺屋根からも炎が噴きあげて夜空を焦がしたので、辺りが明るくなった。

 あちこちから人が出てきた。この静かな田舎のどこに、こんなに人がいたのかと思うほど、どてらや綿入れを羽織った男や女や子どもたちが、うじゃうじゃと湧いてきた。

 火消したちが到着することのなんと遅いことか。家がほとんど燃えてしまってから、濡れむしろをかけたり鳶口で家を壊しはじめた。

 やがて火事はおさまり、火消したちは帰っていった。野次馬もひとり去り、ふたり去りして、辺りはまた静まりかえった。

 茫然と見ていたあたしは、家へ帰るつもりだったことをようやく思いだした。ここからもう少し歩かなければならない。

 道を曲がったときだった。

 あたしのまえに金色のもやもやが揺らめいていた。あたしが右へ寄れば、陽炎も右へ揺らめき、左へ寄れば左へ揺れる。陽炎はまるで後ろに目があるみたいだ。

 火つけ陽炎はこんどはあたしの家を狙っている。

 二、三軒さきに、あたしの家が見える。父と母が長年ちまちまためたお金を元手に、身分不相応の借金をして買った家が。

 あたしはだっと走りだした。先をゆく陽炎を追いかけた。裾を乱して走り、金色のもやをとうとう追い越した。家の木戸門のところで振りかえると、陽炎はゆらゆらとこっちへやってくる。あたしは門を開けた。

 それから腰高障子の戸に急いで手をかける。それは金色にまたたきながら、ずんずん近づいてくる。

 あたしは家の中には入らず、戸を思いっきり大きく開け放った。

 陽炎はあたしの横を通り、すうっと中へ入っていった。


 

 第一話 日本橋の霧

 

 その日、五兵衛は日本橋に向かっていた。得意先回りが早く終わり、夕暮れまえに家に帰れそうであった。

 橋台にある魚河岸のにぎわいを通り抜けた。すでに帰り支度をしている者が多い。たいていの盤台や天びんのなかは、ほとんど空で、売れ残った魚がぐったりしていた。

「安いよ! 買ってくんなきゃ、こんなかの魚ぜんぶ川へ捨てるよ」と叫ぶ声。

 ふん、江戸っ子があんな活きの悪い魚、買うもんか──

 そう思いながら、橋のたもとにさしかかったとき、暮れ六つの鐘が鳴った。

 

 そして渡りはじめるころ、霧がかかってきた。橋の向こう岸の高札場は見えなくなっていたし、右側にいつもは見える一石橋もぼんやりとしている。

 晴れた日には富士山も江戸城も見えるはずだった。

 五、六歩渡ったときには、霧はさらに深くなり、三尺先も見えない。槍持ちや挟み箱持ちなど数人の供を連れ、馬に乗ったお武家が蹄の音を鳴らして、橋の中央を通っていたが、その歩みものろくなったようだ。

 白いものはしずかにすばやく辺りを巻きこんでいく。自分の足下さえ見えず雲のなかを行くようなおぼつかなさだった。川面はもちろんのこと、川を行く舟も見えなかった。

 霧のなかを歩いて、歩いて、歩きつづけた。

 しかし、いつまで経っても向こう側に着けない。

 いつもなら、もうとっくに着いているはずなのに、おかしい──

 周りの人を見ようにも、霧が深く、ぼんやりした影が見えるだけである。供連れのお武家の乗った蹄の音だけが耳に入ってくる。その規則正しい音に安心して、五兵衛は遅れないように歩いた。

 それにしてもおかしかった。もうたっぷり四半刻は歩いているような気がする。日本橋は大きな橋だが、そんなにかかるはずがない。

 得意先で引っかけてきた酔いが今ごろ回っているのか。それで足がかったるく、長く感じるのかもしれない。五兵衛は頭を振った。

 前のほうを歩いていた行脚僧の背負った厨子が、霧のなかにぼんやり見える。鉦と鈴の音もかすかだが、ときおり聞こえる。

 供連れ武家の乗っている馬の蹄の音も相変わらず聞こえていた。

 みんな何事もないように、霧のなかの橋を渡っている。

 酔いが回りすぎたのだ。早く家へ着きたいという気持ちが、長く歩きつづけているように感じるのだ。そう考えたが、身体はかくじつにだるく、足も痛んできた。

 不審に思う者はだれもいないのか──だれかに聞いてみようと思った。お武家の草履取りになら、気やすく声がかけられそうだ。そちらへ近づいていった。

 

 そのとき馬の蹄の音が変わった。木の板を踏む音から土の音に変わったのだ。橋は終わっていた。ようやく渡りきったのだ。しかし辺りは真っ暗になっていた。

 それから家までは、いつもどおりすぐに着いた。

「あんた、遅いじゃないのさ」と女房が言った。

 おう、狐につままれたみてぇでよ、と答えようとしたとき、鐘が鳴った。

「いまの鐘、いくつだ」

「もう五つ(午後八時)だよ」

 日本橋を渡るのに一刻(二時間)もかかったのか。どうりで足も痛いし、疲れるはずだと五兵衛は思った。

 

牧南恭子(まきなみやすこ) : 小説家。講談社『爪先』でデビュ。『帰らざる故国』『五千日の軍隊』など満州物のあと、時代小説のシリーズ物が多い。『ひぐらし同心』は、『時代小説最強ガイドブック』で120シリーズ中のベストテンに入る。『つぐない屋お房』は、しそびれたお礼や 昔の過ちをつぐなう、というユニークな裏家業を取り上げている。ほかに『旗本四つ葉姉妹』など。