翻訳が一番

 

第6回 翻訳家とピアニストは似た者同士

 

翻訳家は音楽の演奏家と似ているところがある。音楽を演奏する人は楽譜を命ある音に再現する。それにはまず技術を身につけ、楽曲を理解し、それに新しい息吹を与えて、聴く人に届ける。曲は同じでも、演奏は演奏者ひとりひとりによって違う。

 

技術を身につけなくては始まらないのは、外国語学習もピアノ演奏も同じ。ピアニストが楽譜に書かれたあらゆる音を出せるようになっても、それだけでは音楽とはいえないのと同じように、外国語の文字をただ日本語の文字に置き換えても翻訳とはいえない。外国語で表された文化を日本語で伝えることが翻訳なのだから。文化は書かれた内容だけにあるものではなく、言語のかたちや仕組みもまた文化だ。

 

だから翻訳するときは、たとえば英語で書かれたものをただ読んでいるだけのときと比べて50倍も100倍もそこに表現されていることとしっかり向き合うことになる。読書の場合は、辞書も、知らない単語が出てきたときぐらいしかひかないことが多い。でも翻訳となると、とにかく辞書をひく。自分が知っている程度の語彙力では日本語として幅が狭いから、もっといい日本語があるのではないか、と「英和辞典」をひく。その日本語を「国語辞典」で確かめる。自分の選んだ日本語が元の英語に戻るかどうか「和英辞典」をひいてみることもある。「英和辞典」では納得できなくて、「英英辞典」をひき、その英単語の意味を英語で確認することもある。図鑑や特殊な専門分野の辞書をひくことも、もちろんたびたびある。

 

単語でこわいのは、知っていると信じきって、その知識だけで判断してしまうことだ。「翻訳塾」でポール・オースターのThe Red Notebookを課題として使ったときのこと。次のような文章があった。

 

I ducked into a little alcove to light a cigarette (a strong wind was blowing that day), and there, sitting on the ground not two inches from my feet, was a dime. I bent down, picked it up, and put it in my pocket.

 

構文をしっかり見れば分かることだし、ここに引用した部分だけでも最後までしっかり読めば間違えようがないのだが、さっと目を通したときに、この文章の中のsitting on the groundを、自分が地面に座り込んだように思ってしまい、そのあとの訳がめろめろになってしまった人がいた。ここでsitしているのは、a dimeであって、a dime was sitting on the groundが倒置法をとって書かれている。どうして10セント硬貨が座るの? と思う人は、そうそう、辞書をひいてほしい。鳥が木に止まっているときも、車がガレージにはいっているときも、風がどこかの方角から吹いてくるときも、家の在処を示すときも、sitで表現される。このように、自分の狭い思い込みを広げてくれるのも辞書の効用。

 

こうして言葉のもつ意味やその範囲を調べ、一方で、書かれたことの背景を調べ、原文を書いた人の気持ちや考え方に思いを馳せ、日本語で表現していくのが翻訳だ。ピアニストがひとつの音符もおろそかにせず、あらゆる細部に気を配り、全体の構成や流れをとらえ、そのうえで独自の表現をうみだしていくのと同じように。

 

ピアニストはきっと、古今東西の作曲家たちが紙にしたためた作品を実際に音にする喜びを深く感じるだろう。翻訳も自分では書くはずのない、あるいは書けるはずのない数々の文章を、あたかも自分のものであるかのごとく一字一句日本語にしていく。その喜びは、とてもとても大きい。技術を身につける苦労はあっても、また、ひとりひとり目的や扱うジャンルは異なっても、この大きな喜びを英語を勉強する人たちと共にしたい。


 

第7回 彼と彼女と私とあなた

 

翻訳のとき、人称代名詞をどう訳すか、そしてどう省くか。これがなかなかやっかいだ。

 

I  YOU をどう訳すかで、文章の雰囲気や人間関係がすっかり変わるのは、よく言われること。ざっと考えただけでもI は「私、わたし、わたくし、僕、ぼく、おれ、自分」など、YOU は「あなた、きみ、お前」など。また YOU は、一般的な「人」とか「ひと」を表す場合もある。日本語の普通の会話では二人称(YOU)はあまり使わず、必要なときは名前を言うか、社会的には肩書きで言うか、「お母さん」などと関係を表す言葉を使うから、YOU をまともに訳すのは難しい。敬語を使うことによって訳を省略したり、そのつど工夫せざるを得ない。

 

代名詞をどう省略するか。英文は基本的に主語を必要とする。日本語の文章は、必ずしもそうではない。主語が同じ文章が幾つかつづくとき、二度目からは主語を省いても十分通じるし、むしろ省くほうがすっきりする。I  YOU だけでなくHE  SHE でも、また主語だけではなく目的語や MYYOUR などでも、原文にある通り全部訳すと、日本語がもたつく。

 

基本的に、最初は人称代名詞も入れて訳してみる。読み直しのときに、それがなくても意味が十分に通じるかどうか確認し、通じる場合ははずしていく。会話体が続くときなど、英語ではしょっちゅう he said とか she said が台詞の前後に繰り返される。それがないと誰の言葉かはっきりしないからだ。日本語にすると、男言葉や女言葉、丁寧語や敬語によって、いちいち「と、彼は言った」とか「と、彼女は言った」といわなくても話し手がだれか分かる場合が多い。そのときは省略していいのだけれど、ただ、文章にはリズムが大切だから、全体を読んで、ときには補うなど、そこは言語感覚を問われるところ。要は、訳文で人称代名詞を省略するという意識を持つこと。

 

人称代名詞を訳に「出さない」苦労もさまざまある。たとえば子ども向けの本を訳すときもそうだ。英語を母語とする人たちは、言葉を使いはじめた年頃の子どもに人称代名詞を正確に覚えさせるために、むしろなるべく多く代名詞を使う工夫をする。明らかに「he」と「she」を子どもが無理なく覚えるように書かれている絵本もある。そういう目的があるにせよ、絵本として優れているものは当然、日本語に訳されるだろう。でも日本語では、「彼」と「彼女」という言葉を小学校にあがる前の子どもに教えこむ必要はない。だからおのずから、そこは名前かそれに代わる名詞を入れることになるが、絵本のように短い文章のなかに「he」と「she」が繰り返し出てくるのを、どう処理するか、かなり難しいところ。絵本の翻訳について専門に教えている方は、どのようにアドバイスしているのだろうと、私も教えていただきたく思う。

 

たとえば『BIG BEAR LITTLE BEAR』という絵本がある。お母さん熊と子どもの熊(男の子)の楽しい様子を描いた作品だが、語りの部分とお母さんと子どもの会話の部分とにある、big bear, little bear, she, he, I, you をどう日本語にするかが腕の見せ所。たったひとつの正解など、もとよりないのだが、お話がかなり幼い子ども向きであることを考えると、まず、big bear  little bear の訳をそれぞれひとつにしぼることが大切だろう。she  he の部分についても同じことがいえる。できたら big bear  she に、little bear  heに共通する言葉なり音がはいっていると、子どもは無理なくお話全体を理解できるのではないだろうか。さらに I  you にも、同じような配慮ができれば素晴らしい。

 

「翻訳塾」の25人に訳してもらったところ、次の組み合わせを考えてくれた訳は、難しい問題をうまく解決していた。big bear が、語りの部分では「かあさんぐま」で、お母さんは自分のことを「かあさん」、子どもを「子ぐまちゃん」と呼ぶ。little bearが、語りの部分では「子ぐまちゃん」で、子どもは自分のことを「ぼく」、お母さんを「かあさん」と呼ぶ。この最少の言葉で、語りの部分も会話の部分もカバーしている。もちろんほとんど文章ごとにある she, he を「彼女」「彼」とは決して訳さない。

 

訳していると、とくに「彼」「彼女」をまったく使わないで表現するのは至難の技だと思えてくる。当然ながら、使っていけないわけでもない。日本の文学でもごく自然にこの代名詞が使われているが、新聞を広げて隅から隅まで見てもほとんど見つけられないのも、この代名詞だ。

 

 

第8回 「私たち」とか「我々」ってだれ?

 

前回につづいて人称代名詞のこと。we とあると、とりあえず「私たち」とか「我々」と訳してしまいがち。(この「我々」という言葉も、古い感じがする。ぴたっとくる状況もなくはないけれど、ひらがなで「われわれ」とする手もある。)

 

ほかの人称代名詞と同じように、we の使われ方もいろいろある。peopleonetheyyou と同じように、人々一般を指す総称として使われる場合もある。話し手側だけの we もあれば、聞き手側も含む we もある(つまり「私たち」の中に話しかけている相手が含まれていない場合と含まれている場合がある、ということ)。

 

総称として使われているときは、日本語に訳さない場合がおおい。例えば We speak Portuguese in Brazil.  They speak Portuguese in Brazil. も、「ブラジルではポルトガル語を話します」と訳す。話し手が誰であるかによって we になったり、you だったり、they だったりするのを、日本語では代名詞を使わない表現にする。

 

「乗り物と会社と編集者・著者の we 」といわれる we もある。乗り物の場合、our train とあったら「私たちが乗っている列車」ということで、「この列車」とか「私たち」など、その状況にふさわしい訳し方をする。会社の we というのは、会社とか店などが自分たちを指して使っているので、 our company とあったら「当社」などと訳す。そして編集者・著者の we は、筆者が独善的な印象を与えないために I の代わりに使うもので、we think とあったら「〜と思われる」などと訳すとうまくいく場合が多い。

 

ついでながら、実際にはほとんど目にしないが「親心の we 」「国王の we 」というのもある。面白いでしょう? 辞書や文法書に解説が出ていると思うので、興味があったら見てください。

 

むしろ工夫したいのは、こういった総称的な we ではなく、具体的に誰かを指している we の訳し方だ。もちろん、まずは文脈から、誰のことを指しているかを判断する。それを「私たち」と訳せばすむ場合ももちろん多いが、問題は「私たち」ではなにかぴんとこない we のとき。

 

クリスマスのころ、「翻訳塾」で、アメリカの著名な料理人が書いたクリスマス・ミールにまつわるエッセイを訳した。主語はずっと I で、ある家族のクリスマスの準備と当日の朝からの出来事を語ったものだ。

 

  By December 15 our Christmas tree is in the living room, looking green, fresh, and pure.

 

この文章の少し後に、主語としてとつぜん we が出てくる。

 

  We fuss, trying to balance the lights on the tree....

 

クリスマスツリーを飾るシーンだが、さて、この we を「私たちは」ですませるのは寂しい。前出の our を生かして、ここは「家族みんなが」とか「みんなで」「家族で」などと訳して後につないでいきたい。

 

このように、we はさまざまな顔を持つ。どういう表情をもたせるか、いきいきとした文章をつくるための大切な言葉だ。

 

 

第9回 「ですます調」と「である調」

 

翻訳するときに、まず、あるいはどこかで、決断しなくてはならない大きな問題に文体がある。文章の最後を「です、でした」とか「ます、ました」などで終らせる「ですます調」か、「である、だ」で終らせる「である調」かの問題だ。

 

これは英語にはないことなのだから、ひとえに書かれている内容によって自分で決めなくてはならない。

 

ほとんど悩まず決まるのは、たとえば手紙文。これは、書き手と手紙を宛てた相手との関係で、おのずから決められる。ビジネスレターだったり正式な文書であれば、もちろん「ですます調」。手紙を交わしているのが、きょうだいとか親しい友達であれば「きのうは面白いことがあったよ」などと訳してもいいが、手紙の場合、「である調」であることのほうが数少ない。次にスピーチのように話しかける文章のとき。これは「ですます調」のほうがなじむ。

 

短いエッセイだと「ですます調」で訳されることがある。たしかにそれが雰囲気としてぴったり合うときもある。でもなかなか他の言葉とのバランスをとるのが難しい。文章が全体的に冗漫になりがちでもある。私は、たいていのものは「である調」で訳すほうが、すっきりしていいのではないかと思う。エッセイの書き手が女性だと「ですます調」、男性だと「である調」にするという人がいるが、そんなふうに性別を根拠として機械的に判断することにはあまり賛成できない。

 

会話の場合は、あらゆる環境から言葉遣いを決めていかなくてはいけないので、少し問題が違う。その環境への判断がやっかいなので、ちょっと触れておきたい。環境とはつまり性別、年齢、職業、身分、国籍、さらには会話をする人たちの関係性などのことだが、気をつけたいのは、知らず知らずのうちにもっている自分自身の偏見というか思い込みだ。たとえば会社の上司と部下の間で交わされる会話を、必要以上に、上司の言葉を横柄に、部下の言葉をへつらって訳したりしていないか。女性の言葉をやけに女らしさを強調して訳していないか。いわゆる知的な職業についている人の言葉は「ですます調」に訳しながら、身体を動かして現場で働いている人の言葉はもっとくだけた調子に訳していないか。年輩の人の言葉に、実際には使われていないような「お年寄り言葉」をあてはめていないか。今どき、「そうじゃよ」なんていう言葉遣いをする人はあまりいないのに、翻訳に突如として姿を現すことがある。

 

「ですます調」と「である調」をうまく使いこなしてほしい。ところが、ある講座でそう説明した後、出てきた翻訳文を見てびっくり。不自然であろうとなんであろうと、文末が全部「である」になっていたのだ。本人に言うと、「おかしいと思ったんですけれど」とのこと。ふたつの調子のことは国語の授業かなにかで習っているはず、と説明を中途半端にした私がいけなかった。いま読んでもらっている、この文章は「である調」。

 

翻訳は判断と決断の連続だとつねづね感じている。たとえば幾つかの訳語が考えられる場合(というか、たいていの場合がそうなのだが)、最終的にどれにするか、なかなか決められない。でも翻訳は孤独な作業なのだ。自分で決めなくては前に進まない。「です」でとめるか「だ」でとめるか、常に決断をせまられる大きな課題である。


 

第10回 訳者の数だけちがう訳

 

ある訳語を考えて、これ以外、絶対にないはず、と思う。ところが多人数で一緒に翻訳をしていて学ぶのは、同じ言葉にも人の数だけ訳語があるという事実。作品の題名の訳には、それが一層はっきりと表れる。

 

あるクラスでロアルド・ダールの短編小説"The Umbrella Man" を訳したとき、18人で16通りの題訳が出た。もちろんそれぞれ、ほかの人がどう訳しているかということはまったく知らずに、自分はこう訳す、と決めて出したものだ。どれも工夫がこらされているので、列挙してみよう。

 

「傘を差した男」「傘を差したおじいさん」「傘の紳士」「傘をさす男」「こうもり傘の男」「こうもり傘を持った男」「傘をくれた男」「かさ」「傘を持った男」「アンブレラのおじいさん」「傘とお年寄り」「紳士と雨傘」「傘男」「アンブレラ・マン(=二人)」「傘を売る男」「傘の男(=二人)」

 

この結果を別のクラスで話したとき、一人が言った。「その短編が『傘男』という題だったら、読みたくなると思います」。そうか、なるほど。ちなみに、この話は、にわか雨に振り込められた人に傘を安く売ってはお酒を楽しむ老紳士がいて、パブで一杯ぐいっと呷ると、外に出るときにドアの横にある他人の傘を何気なく取り上げ、また次のカモを探しにいく、というもの。12歳の女の子の目を通して書かれている。

 

こちらのクラスでアーネスト・ヘミングウェイの短編"A Day's Wait" を訳したときは、全員の題訳を並べて、一番いいのを選ぶことにした。これは先に筋を書くと、熱を出した男の子が、あまりの体温の高さに自分は死ぬのだと思い込んで一日を耐えていたが、華氏と摂氏とでは数字の表し方が違うと夕方になって教えられる話。これに対して出てきた題訳は次の通り。

 

「待ちかねたその日」「死ぬかと思って」「一日待ち続けたもの」「長い一日(=二人)」「寿命に付き添って」「一日の待機」「一日待って(=二人)」「死と向き合った一日」「待ち続けた日」「来るべき日」「一日中待ったこと」「一日中待ちつづけて」「日がな一日」「ある日の待ち時間」「待ちあぐねた一日」

 

まず、話の内容を題の訳で明らかにしてしまうのは、読者の興味を失わせるので、却下。原題が持つ、なんだかよく分からないけれど面白そうな雰囲気を表現したいし、短いことも大切だ。そういうことから消去法をとり、最後に皆の意見で最もいい訳として残ったのは「一日待って」だった。

 

ダニエル・キースの小説"Flowers for Algernon" は、クラスでは抜粋を訳しただけだったし、邦訳でもテレビドラマでも『アルジャーノンに花束を』という大変いい訳が定着しているので題訳は試みなかったが、この二クラスの人たちなら、どれほど様々な訳を出したことか。書籍や映画の題名は、できるなら、なるべく原題に近いものの方が、後で原書を求めるときなどに助かる。やはりロアルド・ダールの "The Butler" を訳したとき、ほとんどは順当に「執事」としていたが、内容を汲んで見事な遊びぶりを発揮した「成り金エレジー」という訳が出た。これからもフランス語の "Les Miserables" を『ああ無情』と訳したような素晴らしいひらめきを求めていきたい。