翻訳が一番

 

第11回  気をつけて! —— 現在/過去/過去の過去

 

日本語では「てにをは」の使い方によって文章の意味がまったく違ってしまう。英語でそれに当るのは、助動詞や助詞ではなくて、もしかすると時制ではないかと思う。機能はまったく違うが、それくらい大切なのが時制だ。

 

ところが講座をやっていて実感することがある。小説でもエッセイでも記事でも、長い文章が幾つも出てくるものの翻訳で、時制がおろそかになりがちなのだ。is / was / had been の経過が気にならないのは、これまで英文を読んできて、とくに気にする必要がなかったからだろうか。日本語になったときに、それほど重要だとも思われないからだろうか。でも、いつのことなのか時の流れを追わないで英文を理解する方が難しい。

 

英文をきちんと理解するには、時制が大きなヒントにもなる。小説などでは、現在を語っていたかと思うと過去に触れ、その過去のまた過去などというのはしばしばある。たとえば次の文章には、この3つの時制がはいっている。(引用は前にも出てきたポール・オースターの The Red Notebook から)

 

I can place that event in early spring because I know that later the same day I attended a baseball game at Shea Stadium - the opening game of the season. A friend of mine had been offered tickets, and he had generously invited me to go along with him. I had never been to an opening game before, and I remember the occasion well.

 

(その出来事があったのは春もまだ浅い頃だったと言える。その後、同じ日にシェイ・スタジアムに野球を、それもシーズン開幕戦を観に行ったのは確かだからだ。チケットを手に入れた友人が一緒に行こうとぼくを誘ってくれたのだ。それまで開幕戦には一度も行ったことがなかったから、その時のことはよく覚えている。)

 

ここでは、今おぼえていること(現在)、野球を観にいったこと(過去)、それまで開幕戦に行ったことがなかったことと友人がチケットを手に入れて自分を誘ってくれたこと(過去の過去/過去完了)と、時の流れがはっきりと書かれている。この流れをとらえなければ、この文を理解できたとは言えない。たしかに、ここでもそうだが、日本語の表現では英文通りの時制表現ではなくなることもある。過去と過去完了の区別がつけにくいし、英語では過去形で表現されている部分を日本語では現在形で表現しなくてはおかしいこともある。「時の一致」といわれて英文の中で動詞が同じ時制で書かれる場合、日本語では後の方をたいていは現在形にする。(I thought she was crying. は「彼女が泣いていると私は思った」で、「彼女が泣いていたと私は思った」ではない。)だがその場合も、基本的には原文の時制をしっかり把握したうえでの日本語表現でなければならない。

 

スポーツ記事から例をもうひとつ。アメリカのメジャーリーグで、ある野球選手が「バットすり替え事件」を告白したというもの。選手用ロッカールームから審判員更衣室までこっそりと天井裏を這っていってバットをすり替える計画をたてた。

 

He estimated the distance between the clubhouse and the umpires' room to be at least 100 feet. He had never done this sort of thing before, but he had never been afraid of adventure.

 

(選手用ロッカールームと審判員更衣室との間の距離は少なくとも100フィートはあると彼は推定した。それまでそんなことは一度もしたことはなかったが、冒険を恐れたことも一度もなかった。)

 

この例文の訳では、最初の文の過去形と後の文の過去完了形は、日本語ではほとんど変らない。けれども、この二つの文章が描写している二段階の時の違いを把握しているかどうかは、this sort of thing の訳に表れる。これを「こんなことを」とか「この種のことを」と訳さず、二文目の時点を estimated よりも昔のことと判断し、訳例のように「そんなことを」と訳すほうが状況がはっきりする。

 

時制はあなどれない。


 

第12回  やめたい、むだな重ね訳

 

英語では幾つかの単語を使って表わすものを、日本語では一語で表現することがある。また逆に、一語の英語を訳すのに、幾つかの言葉を使わないとどうしても日本語で表現できないこともある。一般的な名詞について常時直面することだ。しかたがない、文化が違うのである。

 

しかし、そうした文化の違いによる表現とは別に、日本語の訳にすでに意味が含まれているのに、また二重に訳していることがある。出来上がった訳文を読んで、なんとなくもたついている気がするのは、この重ね訳のせいであることが多い。どう説明したらいいのか、ちょっと難しいのだけれど……。

 

たとえば頻繁にある例で、and  but の日本語訳がある。完結した文章(節)を二つつなぐとき、しばしば使われる接続詞だ。

 

They left, and we remained. ——彼らは出発して、そして私たちは残った。

 

この訳の「そして」はいらない。英語では主語と述語がある二つの文章を並べるのに必要な接続詞だが、日本語にしたとき、「出発して」の「て」が接続詞の役割をしっかり果たしているから。「彼らは出発して、私たちは残った」で十分。

 

They make our life a little easier, but most are just useless. ——そういった物は生活を楽にはしてくれるが、しかしほとんどが役に立たない。

 

この訳で、「しかし」はいらない。 but の意図は「くれるが」の「が」に含まれている。

 

これと同じ考え方は、接続詞以外の訳の場合にも当てはまる。たとえば次の文章のとき。

 

Americans are now surrounded with items that do things for them.

 

この文章の訳として、「いまやアメリカ人は、自分たちのためにいろいろな事をしてくれる物に囲まれている」とすると、間違いではないが、もたつきが感じられる。この場合、 for them の訳「自分たちのために」は、すでに「してくれる」という日本語に含まれている。だから訳は、「いまやアメリカ人は、いろいろな事をしてくれる物に囲まれている」でいい。

 

もうひとつ例をあげよう。このシリーズの第7回でも触れたことだけれど、小説でほとんどのせりふについている he said  she said のたぐいだ。これを全部訳すか、適当に省いていいか、翻訳者はたいてい悩むのだけれど、私はまず、重ね訳かどうかから判断して決める。つまり、英語では会話部分だけでは男女の区別がほとんどつけられないからこそ、he said  she said がくり返されるのであって、日本語ではたいていの場合、文体の口調で男女の区別をする。だから she said を訳さなくても、話し手が she であることが分かれば訳す必要はない。ただし文章全体の流れやリズムをつけるために幾つか残すのは、また別の問題。だからこういうことは翻訳の経験を重ねながら、つまり自分の手で文字にして表現して初めて、実感することなのかもしれない。


 

第13回 「文法」は自然には身につかない

 

翻訳を勉強している人と話をすると、出来る人ほど「自分はまだまだ勉強が足りない」と言い、出来ない人ほど「わかっているのだけれど、日本語の語彙が足りなくて」と言う。

 

でも、それはちがう。出来ない人は、語彙が足りないのではなくて、英語がわかっていないのだ。読む英語が何を伝えているのかわからない。とくに英文法がわかっていないから、構文が読み取れず、主語と述語の関係がとらえられない。元の英語がすっきりとわかれば、それを日本語でどう表現するか、いちばんふさわしい言葉をなんとか見つけよう、という気持ちになれるはず。

 

翻訳を勉強しようと思ったら、自分の力の及ぶ限り英文と取り組み、訳し、間違ったところが添削や講議でわかれば、そこからの勉強を大切にする。間違えるのはたいてい文法がわかっていないからだから、自分が何を理解していなかったのかを調べる。現在完了の解釈が違っていた/仮定法の「もし」という部分がどこに隠れているか見つけられなかった/前置詞の意味がとれなかった/不定詞の役割を思い違いしていた/構文の組み立てが理解できなかった、などなど幾つかポイントが出てくるに違いない。そうしたら、その部分について英文法の本や大辞典などで勉強する。似ている例文を引き出して、比べてみる。これが一番の勉強法で、そう思えば間違えることはとても貴重な機会だと言える。

 

出来ないことは恥ずかしいことでもなんでもない。だれにだって出来ない時期があって、勉強して、それで出来るようになるだけであって、そのスタートが20歳であろうと60歳であろうと、ちっとも構わない。

 

英会話を習っている人でも、自分で文法を勉強しなければ、ほんの初歩から先へは進むはずがない。だって、「小学校は家の近くだったけれど、中学になると電車通学になって、定期券を使うのが嬉しくてたまらなかった」なんてことも、文法がしっかり身についていなければ、さらっと言えないでしょう。

 

ただし、文法は「文法」として勉強しようと思うとつまらないもの。たとえば好きな小説を読んでいて、つまずいたところを調べるために文法書を開けば、ずっと自然に自分のものになる。ぼんやりとしかわからなかった文章の意味がわかったときというのは、数学の問題を解くように、本当にすきっと感じる。勉強ってそういうものだと思う。

 

だからぜひ、翻訳を勉強する人には、絶えず文法のチェックを積み重ねてほしいのです。それからあと三つ、この際おすすめしたいことがある。一つは、英語の原書をたくさん読むこと。当たり前だけれど、英語を英語のまま楽しむために、ぜひ。二つ目は日本語の本をたくさん読むこと。むしろ明治、大正時代あたりの作品を読むと語彙や言い回しが豊富になる気がします。三つ目は、英語をたくさん聞くこと。会話はもちろん、どんなジャンルの文章であれ、言葉はリズムがいのち。話すときも読むときも、そこにうまくとけこめるかどうかはリズムの捉えかたにかかっている。好きな作家のエッセイなどを、ときには原文を見ながら聞いてみてはどうでしょう。オーディオブックは洋書店やオンライン・ブックストアで手に入ります。

 

 

14回 答えたくない質問ふたつ

 

聞かれても、あまり答えたくない質問というのがある。そのうちの二つをとりあげてみます。

 

ひとつは、「英語を読んでいて知らない単語が出てきたら、そのつど辞書をひくべきでしょうか?」というもの。答えたくないから、私はたいてい、「どちらでも」などと素っ気なく言う。つまり、自分がその単語の意味をその段階で知りたかったら辞書をひけばいいし、わからないながらも先に進みたいという気持ちの方が強かったら、辞書に寄り道せず読みすすめればいいと思う。言葉に向き合っているときは、どうするべき、などという決まり事はなるべく少なくして、自分の気持ちを一番大切にしてほしい。

 

ただこれは、そのとき何のために英語に接しているかにもよる。趣味の読書として英語の本を読んでいるときは、この言葉だけは意味がわからないと先に進めないというキーワードのようなものがあるから、それは辞書で調べ、あとはなるべく楽しみながらどんどん読んでいくのがいい。もちろん辞書をひくことが億劫でなくて、むしろひとつひとつ霧がはれるように感じるのであれば、ひけばいい。一方、仕事や勉強として英語に取り組んでいる場合であれば、単語の意味は重要だから、そのつど辞書をひくほうがいい。でもそのときも、なるべくまとまった量の文章を塊として読んでから、また戻って辞書をひく方がいいと思う。

 

翻訳をするときは、この最初に読む塊をなるべく多くとって、まず全体をつかむことがとても大切だ。その全体の中で、今度は小さな塊ごとに日本語での対応を考えていく。ひとつひとつの単語にしても、文章の中での位置をきちんととらえなければ意味を理解できず、辞書のひきようもない。そして翻訳のときは、わかっていると思う単語でも辞書になるべくあたること。自分が間違って思い込んでいることも多いし、思わぬ別の意味をもっていることもある。ひんぱんに辞書をひき、そこにある訳語の中に使えるものがなければ、なんとか自分で適切な日本語を絞り出す。これが翻訳だ。

 

いずれにしても、いつ辞書をひくか、その人の気持ちと目的によればいいのであって、決して「〜すべき」という答えはない。だから、私は答えたくないと思うのです。

 

ふたつめは、「この作品は、どういう読者を意識して訳したらいいでしょうか?」というもの。どういう読者もなにも、原作者がある一定の読者を意識していない限り、翻訳者が作品を余計な枠にはめることはない。翻訳者が読者を意識すべきなのは、児童書とか絵本の場合、ビジネス文書の場合などだ。あとは原文がおのずから示している。

 

子どもを対象にした作品の場合は、訳文に使う言葉や文字の難易度を若干意識する必要がある。といってもあえて翻訳者が対象年齢にこだわらなくても、原作をよく読めば、おのずから使うべき言葉の範囲は示されるはず。その本がむずかしい、あるいは易しいかどうかは読み手がきめることで、これは5歳向きとか、8歳以上とか、あまり細かくこだわりたくない。出版するときは、学校で習う漢字に合わせて、などと細やかな配慮をする場合もあるが、子どもにも個人差がある。本を読むのが好きな子で、その子にとって楽しければ、小学生が大人の本を読んでもちっとも構わないのだから。

 

翻訳者にとって必要なのは、誰に向けて書いてあるかという面も含めて原作を読みこなすこと。翻訳者が読者を決めることはない、というのが私の基本的な姿勢です。

 

さて、冒頭であまり答えたくない、と書いたけれど、もちろんこれは私の傲慢さから出た言葉……聞く方は真剣に聞いてくださるのだから、ちゃんと答えなくては、ね。ごめんなさい。

 

 

15回 『ハリー・ポッター』に学ぶ

 

J.K.ローリング著『ハリー・ポッター』シリーズは今年(2003年)5冊目が出て、相変わらず世界中でファンを巻き込んでいるようだ。1巻ごとに厚さを増していて、第5巻は766ページ。私は1巻を読み、映画を観たけれど、それ以降は気がすすまないでいた。でもなんとなく今回は、これだけ評判を呼び、ベストセラーの座を守り続けている本なのだから、ちょっと覗いてみようと思った。この本、文章はなかなか優れもの。決して「子ども向けに易しく、わかりやすくお話しましょうね」などというものではない。テンポのいい、豊かな言葉づかいで読む者の興味をぐいぐいと引っ張っていくのはさすが。邦訳は1年ほどたたないと出版されないというのは、充実した内容からも分量からも納得できる。であれば、冒頭だけでも翻訳塾の課題にとりあげてみる価値は十分ある。

 

さて、実際に訳してみると、考え込む箇所が次々と出てきて、とても勉強になった。まずたたみかけるように展開していく、流れのあるナレーションの文章を日本語にするとき、構文にとらわれて少しでも後ろから訳したりすると、とたんに日本語のなかで出来事の時間的な順番がくるってしまう。訳文を読んだときに、すらっと頭にはいってこないのだ。では原文にそって、出来事の順に日本語にしていくと、今度はぷつぷつと日本語が短く切れてしまって、リズムと流れが生きてこない。なかなか苦労する。

 

このナレーションの部分は第三者ながら適宜、主人公の気持ちにそって語られているので、それを生かしたいとも思う。主人公ハリーの科白になっていないのに、ハリーの言葉がそのまま地の文になっているところもある。だから、逆にそれを生かして、説明部分がハリーの気持ちで語られているときは、日本語ではハリーの言葉のように訳してみると、とてもぴったりはまることがわかった。

 

そしていつも悩むのが、言葉自体が表している文化だ。ハリーのおじさんとおばさんは、息子のダドリーの "lies about having tea with a different member of his gang every night of the summer holidays" をすっかり信じていて、友だちに人気があるなどと喜んでいる。この毎晩(この時は夕方7時頃)、have tea というのは「お茶を飲みにいく」でいいのだろうか。クラスのひとつでは、「お茶する」という今風の表現が合っているという意見が多かった。それにしても「毎晩、お茶する」というのも何だか変。イギリスでは、とにかく1日に何回でも teaの時間がある。ときにはサンドイッチなどと一緒にお茶を飲む、夕食にあたるような tea もある。イギリス人が原書を読んだときに自然に頭に浮かぶイメージを日本語で表すことが難しい例と言えるだろう。この部分、「遊びにいく」とか「友だちの家におじゃまする」とかにすれば日本語としては違和感なく読める。でもそれでは、having tea と言えば親も子も納得するイギリスの文化が伝わってこない。

 

どうかいい訳を皆さんも考えて下さい。もしこれが、翻訳するのでなく、ただ読んでいるのであれば、楽しくどんどん先に進めるだろう。これも翻訳ならではの苦労であり、翻訳しようと思うからこそ、ここまで深く考えることになる。むしろ翻訳の醍醐味ともいえる。

 

ところで、第5巻『HARRY POTTER and the Order of the Phoenix』は、イギリスのオリジナル版は小型で最初に書いたように分厚い。表紙は黄色と赤が基調で、元気に飛び立つフェニックスが描かれている。このまったく同じ版の表紙だけを変えて同じ出版社から同時に出されたのが For Adult 版。ぐっと渋く黒と茶を使い、描かれているフェニックスも厳しい姿をしている。裏表紙は単行本によくある、書棚の前に立つ著者の大きな写真。大人の書棚に並べてもらっても、ほら、こんなに素敵ですよ、と言わんばかりの黒に金字の HARRY POTTER。そしてもう1冊、同時発売されたアメリカ版はと言うと、こちらは版を大きくして文字も大きく読みやすくしてあり、さらにページが増えて870ページ。ブルーの濃淡で主人公が描かれ、題字はちょっと光る青い浮き文字。単行本は値段が高いし、ペーパーバックになるのを待つのが普通だけれども、たまに買ってみるといろいろ楽しいことがある。

 

そうそう、イギリス版とアメリカ版、スペリングはすべて見事にそれぞれの国で使われているものになっていた。たとえば colour  colorのように。インターネットが広まって、英語のスペリングはアメリカ式が多くなっていると思うが、本の世界ではまだまだオリジナルの英語が生きている。