翻訳が一番

 

第16回  その答えは「やり甲斐」

 

このあたりで、なぜ私が「翻訳が一番」だと思っているのかを書いてみたい。

 

翻訳は、音楽でいえばオペラかもしれないと思う。オーケストラも歌も科白も演技も舞台美術も、オペラにはなにもかも入っている。翻訳も、原文の文章をひとつずつ訳していくのではなくて、つねに全体を見て、その中での各文章の役割、単語の役目を探っていかなくてはならない。書いてあることを理解するだけでなく、そこから判断できる状況を見つけ、調べたり推察をしたり、行間も読まなくてはならない。

 

最近の翻訳塾で、ヘレン・ケラーが電話を発明したグラハム・ベル博士、家庭教師のアン・サリヴァン先生に同行してナイアガラの滝に行くくだりのエッセイを訳した。視力も聴力もないヘレンが滝を身体で感じ、その感動を母親に手紙で伝える。その手紙を、大人の女性が書いたものであるかのように訳した人が多かった。ヘレンが生まれた生年月日、そして滝を訪れたときの西暦年が文中にあるから、少し注意すればヘレンはわずか13歳だということがわかる。英語は日本語とちがって、手紙文や会話文を一読しただけでは男女、年齢、上下関係などが汲みとりにくい。だからこそ、状況を探りながら読み、日本語に反映することがとても大切なのだ。さらに、ベル博士は、このときすでに功なり名遂げた年長の大人であることを意識しなければ、ヘレンとの関係が訳に的確に表れない。博士がろう学校に「ヘレンを連れていきたい」と思っていたのが「ヘレンに行ってほしい」という直訳のままで終わってしまう。

 

だからこそ翻訳は楽しい。日本文学を英訳している高名なサイデンステッカー氏も、翻訳はなるべく難しいものに挑戦してこそ楽しい、と書いている。谷崎潤一郎よりも川端康成の「あいまいさ」の方が挑戦しがいがある、とも。

 

小説を書いたり、新聞記事を書いたり、詩を書いたり、翻訳では自分では思いつきもしない内容も文章にする。これほど多種多様な経験はなかなか出来るものではない。紀行文を訳せば、シベリアの極地で橇に乗ったり、アフリカの海岸で夕陽を眺めたりすることもまるで自分の体験のように感じながら文章にするのだから、翻訳が楽しくないはずがない。と、私は思う。

 

そういう経験を求めるのなら、本を読むだけで十分だと言われるかもしれない。もちろん読書は同じようにあらゆる未知の世界に誘ってくれる。でもそれは、あくまでも他人事。読者は受け手でしかない。翻訳は自分の言葉を紡ぎ出すことだから、筆者と共感しなければできない。自分の手で書くことがいかに正確さを問われるものか、翻訳をやってみると実感する。その実感が醍醐味でもある。

 

書店に行くと、英語の勉強法の本が膨大に並んでいる。叱咤激励型があるかと思えば、誰でもいつの間にか出来るようになるといった優しさ一杯型、なかにはやけに悲観的なものまで、実にさまざま。どれを読んでも必ずそれなりに学ぶことはあるのだけれど、一つ確かなのは、本を読むだけでは英語ができるようにならないということ。英語をひとつの言語としてとらえ、それを別の言語(この場合は日本語)に置き換えていくことで、総体的な勉強となる。

 

文法についても、いくつもの細切れの例文に取り組むより、実際に翻訳をしながら、そこで生じた疑問にしたがって勉強していくことで力がついてゆく。そして文法だけでなく、reading(まず原書を読む)も、writing (訳文が適当かどうかを見るときはその訳文を英訳してみる)も、speaking (会話ができないと小説の中の科白が理解できない)も、listening(文章のリズムを感じるには英語を聞き取る力が必要)も、全部が翻訳で生きてくる。

 

さらに翻訳は、究極的には日本語による表現のセンスを問われるもの。なんとやり甲斐のあることだろう。


 

 

第17回 カタカナ言葉にご注意を

 

翻訳するときに、十分気をつけなくてはならないのが、日本語のカタカナ言葉の元になっている英語。どうしても日本語での意味につられてしまいがちだ。いっそのこと、カタカナで使われる(カタカナは文字だから「書かれる」と言うべきかもしれない)日本語は、元の英語とは意味が違っていると決めてかかる方がいい。まったく違ってはいないにしても、元の英語には文脈によってさまざまな意味があるのに、なまじカタカナで日本語として使われていると、それだけにとらわれがち。英語をそのままカタカナにしただけだと言い張ろうと、いったんカタカナになったら、それは違う意味を持つことが多い日本語なのだ。

 

たとえば、こんな文章がある。

 

he and his gang spent every evening vandalizing the play park =彼は仲間たちと毎晩、公園を荒らしまわっていた (ハリー・ポッター・シリーズ第5巻『Harry Potter and the Order of the Phoenix』)

 

Although he had a girlfriend, she was as much a member of the gang as an object of courtship or sexual objectification.=彼にも女友達はいたが、一人前の女性とか性の対象などというより遊び仲間のひとりと言ってよかった。(『Rock of Ages: The Rolling Stone History of Rock and Roll』)

 

英文にある gang を、いわゆるギャング、悪い人たちの集団と自動的に翻訳してしまわず、どういう意味で使っているのか文脈をよく読みとること。gang にはカタカナ語の「ギャング」にはない「仲間、友だち」という意味もある。1つ目の場合はあまり良い仲間、いい友だちとも言えないから「ちびっこギャング」のようにとっても構わないが、「彼はギャングたちと毎晩・・・」とすると、おかしい。2つ目の例はなかなか難しい単語が並ぶ文章だが、それに気をとられて「・・・彼女はギャングの一味と言ってよかった」、などととんでもないことにならないように。

 

この二例は特殊なものではない。常に悩みのタネであるカタカナ英語をあげてみると、今週の課題にでてきた単語だけでも次のようなものがある。

 

senior(シニア)は「年長の」「先輩」「首席」などいろいろな意味がある。決して「お年寄り」だけに使われるのではない。claim(クレーム)は「要求する」「主張する」などが元来の意味で、必ずしも「文句を言う」ことではない。smart(スマート)は日本語の中で使われる「やせた」「かっこいい」感じよりももっと厳しくて強いニュアンスを持ち、「手早い」「見事な」という意味。bike(バイク)は「自転車」とか「自転車に乗る」ことで、オートバイ(こちらはmotor-cycle)ではない。coat(コート)は冬に着る「外とう」よりも、「上着」「ジャケット」という意味で使われることが多いので、考えずに「コート」としない……などなど。

 

日本語の中で英語がそのまま使われる例は、コンピュータ時代になってますます多くなっている。こうしたカタカナ言葉の氾濫に眉をひそめる人も多く、先日は国立国語研究所が幾つかの外来語の日本語表現について案を出して話題となった。いまさら「バリアフリー」を「障壁なし」と言ってみたところで、家の中で段差がない状態を表すことにつながるかどうか、その効用は大いに疑問だが、まあそれは別の問題。もちろん私も原語をそのままカタカナで書くことに賛成であるはずはない。たとえば映画のタイトルだ。「ロード・トゥ・パーディション」は映像がきれいな作品だったけれどタイトルが覚えにくいし、「マトリックス・レボリューションズ」だってカタカナですませず、もっと雰囲気のある日本語で味つけしてみたら?と言いたい。

 

日本語を勉強する外国人にとって一番やっかいなのが、このカタカナ言葉だということはよく聞く。発音は元に似て非なり、意味も違えば漢字と違って文字から推察することもできないうえに、しばしば変な風に省略して使われるから、一層わからないという。それはそうでしょうね。パソコンと聞いてpersonal computerは想像できない。


 

第18回 今年も、翻訳を通じて世界と触れ合いたい

 

2004年を迎えて、このコーナーを読んで下さっている方たちにご挨拶申し上げます。

 

このコーナーは主として、横浜と新宿の朝日カルチャーセンターで計3クラス、それぞれ毎週1回、私が講師をしている「英文翻訳塾」での経験に触発されて書いています。講座は昨年9月末で満2年となりました。96週を最初からおつき合いくださった受講生の方も十数人おり、さらに共に日を重ねています。受講生の方は常時、延べ50人ほど。それぞれ豊かな個性を持ち、私の方が学ぶことが多いと実感しています。 

 

翻訳は、技術的に勉強するだけではつまらない。訳す内容にどれだけせまれるか、毎回その挑戦です。しかも、楽しくなくては、知的に刺激されるものでなくては、まったく知らなかった内容や筆者との出会いがなくては、という心がまえでのぞむ毎週の課題選びが私にとって一番難しい仕事です。

 

日本の政治や国際情勢に種々暗たんたる思いをした2003年でしたが、読んだり聞いたりする情報を自分がどのように理解するか、なにを訳すときでも行間を汲み取らなくては、と日々感じています。書かれていないこと、言われていないことが気にかかります。今年も翻訳を通じて、世界と触れ合っていきたいと願っています。今はそれぞれのクラスで紀行文を楽しんでいます。欧米から見るとシベリアの最果てにあるサハリンでのトナカイとの遭遇、オーストラリアの灼熱のオパール産出地クーバー・ピーディー、と英語を通じて世界を巡っています。

 

このコーナーを読んで下さるだけの方にも、翻訳をするにあたって、なにか少しでもヒントになることがあれば嬉しいのですが・・・勉強は基本的に独学だと私はいつも思っていますが、翻訳も90%が独学でしょう。そこでお勧めしたいのは、好きな作家の作品などを訳してみて、それを出版されている邦訳と突き合わせていく方法です。もっとも小説は、日本語として読みやすくするために省略部分があったり文章の順番が若干変わっていたりすることがあるので、なるべく原文に近いもの、という点では紀行文、伝記、評論などがいいかもしれません。邦訳されたものを参考にして自分の翻訳に自分で手をいれていくと、いろいろな意味で勉強になります。自分が使える日本語の範囲は限定されがちですが、このような勉強方法で、自分では思い付かない言葉に出会えることもあります。「翻訳塾」で使った課題はこのコーナーの「課題一覧」でご紹介していますので、読書の参考にしていただけましたら、とても嬉しく思います。

 

今年1年、皆様にとって晴天が多い日々でありますように。


 

第19回  勉強を嫌わないで

 

小学校教育に英語を導入する案が出されるたびに、新聞の投書欄やコラムに必ずこんな言葉を見る。「日本語を大切にするのが先決で、日本語もろくに話せないのに英語がぺらぺらになってどうする」——でも、私は小学校で外国語を学ばせるのは大賛成。だいいち、小学校で週に1時間や2時間勉強したって、英語を話せるようになんてなりません! もしそうだったら、たいていの人は中学、高校で6年間英語を勉強してきたのだから、英語を話すことができて、原書だって日本語と同じように読めるはず。勉強を技術的に過大評価しない方がいいけれど、だからといってなんの役にも立っていないなどと過小評価するのもよくない。英語にかぎらず、なにかひとつ外国語を学ぶことで、その言葉を使う人たちの文化を垣間見られることが大切なのだと思う。その意味では、韓国語を小学校で習うなんて、とてもいいと思う。ハングルという文字は本当によくできていて、その合理性を小学生は楽しんで受け入れそう。オーストラリアの小学校では7カ国語からひとつ選んで学ぶようになっていて、日本語を選択する子どもが多いそうだ。とても嬉しいことではありませんか。外国語を学ぶ楽しさを日本の子どもたちに知ってもらいたい。

 

さて、大人になって翻訳を楽しむ私たちとしては、さらに深く原文を解釈、理解する必要があり、その理解を助けてくれるのが文法。そしてここでもまた、私はあまりによく、あちこちで書かれることに腹をたてている。日本人が英語に熟達しないのは文法に気をとられすぎるからだ、という言葉だ。文法についてはこのコラムの第13回で書いたけれども、それに少し追加したい。要は、文法がわからなければ、外国語の文章を読み解くことなんて決してできない。文法を知らずに経験だけで英語を理解するとしたら、読んだり聞いたりする分量を何百倍にもしなければならないでしょう。

 

つまり、いつであろうと構わない。どこかの段階で、文法はがっちりやっておかないと、英語を読んだり翻訳したりするのにすぐに行き詰まるということ。文法書を全部覚えていなくても、わからない、と思ったときに文法書のどこを見るか、その見当がつけられるぐらいの基礎は身に付けておきたい。たとえば文章を読みながら、とりわけ意識せずに主語と述語を見きわめられるかどうかは、例のS+Vを基本とする5つの構文が身体に叩き込まれているかどうかにかかっている。

 

私が真剣に英文法の勉強をしたのは、大学受験に落ちて1年浪人したときだと思う。それから何十年もたっているのに、今なおその時の勉強によりかかっているのもどうかと思うけれど、基本はその10代の終りに必死に詰め込んだ丸暗記の知識と例文との格闘にある気がするのだ。先日、娘も同じように感じているのを知った。「代名詞はすぐその前の名詞を受けるもので、なんの代わりなのか曖昧なままにしておかないとか、前置詞の後に ing がきたら動名詞だから、切り離さないで訳すとか・・・そんなことって予備校でしか習わなかった」と言う。私も彼女も高校での勉強が足りなかったから浪人したわけで、普通は高校で学ぶ英文法なのかもしれないが。

 

こう書きながら思い出してみると、基礎は浪人時代にあっても、その後、1冊の文法書を完全に通して読んだことが2度あった。最初は新聞社での社内異動で職場が英文紙編集部になったとき。気を引き締めて、超特急の復習をした。でもそれは面白かった。昔は丸暗記の連続で好きとは言えなかった文法が、いつの間にか自分のなかで確認作業のレベルになっていて、断片的でばらばらだった知識がつながっていく感じだった。もちろん初めて知ることも、まったく忘れていたことも多く、それが新鮮だったりした。それからもう1度、英語を母語とする学生のための英文法書、つまり英語で書いてある文法書を、これはエッセイのように読み通した。面白かった。日本語で英文法を勉強しているときに一番うんざりする日本語の難しさがなかったからかもしれない。確かに文法の勉強は、内容の難しさよりも、日本語の説明が理解できなくて、いやになることがある。英語で書かれた学生向けの英文法書には明解な例文がつぎつぎと出てきて、その積み重ねで文法が理解できるようになっている。

 

英語の本を楽しむには、文法も勉強しておきましょう。


 

第20回 言葉の順番、文章の順番

 

名詞の前に幾つかの形容詞がつくとき、英語では順番が決まっている。それほど絶対的なものではないようだけれども、慣習的に、この順番でないとなにか落ち着かない、というぐらいの受け止めかたは普通にされている。英語を書く場合はその順番にしたがう方がいいとはいえ、日本語に翻訳する場合はそんなこと知らなくてもだいじょうぶ、ではある。でも、注意すべきことがある。

 

どういう順番になるのが自然かは知らなくても、なんとはなしのルールがあるということはしっかり覚えておかなくてはならない。でないと、翻訳する場合に原文の順番にとらわれて、おかしな訳文が現れてくる。たとえば、課題であつかった記事に a prominent Sydney lawyer という言い回しがあった。これを訳すとき、「著名なシドニーの弁護士」よりも「シドニーの著名な弁護士」の方が日本語としては落ち着く。著名なのはシドニーではなく、弁護士なのだから。原文につられて、英語の順番通りにする必要はないのだ。

 

たくさんの形容詞がずらっと並ぶことはめったにないけれども、探してみたら昔話に、こんな言葉があった。the two lovely little old blue French silk fans ——これを訳したらどうなるだろう。ついこのまま「二つの美しい小さな古い青いフランスの絹の扇」としてしまわないかしら。なんともわかりにくいので、この場合は日本語としておさまりのいいように順番を変えてみる。たとえば「美しい青い絹でできたフランスの小さな古い扇二つ」とか。つまり、英語では形容詞に順番があるから、こういう言い方になっているのであって、日本語でそれにしたがうとおかしい。

 

では英語ではどういう順番になっているかというと、大方の英語で書かれた英文法書では次のようになっている。(  )内には上の例文の言葉をあてはめてみた。

 

[冠詞(the)+数(two)+状態を表す形容詞(lovely, little, old, blue)+固有の形容詞(French)+材料(silk)+名詞(fans)]

 

状態を表す形容詞には、さらに大きさ、形、状態、新旧、色という大まかな順番がある。

 

要は英語には英語のルールにしたがった順番があるということ。日本語を書くときは日本語として自然な表現にするのと同じ、ごく基本的な話である。

 

文章を訳すときは可能な限り英語の流れにそって、つまり、なるべく英語を読む人が頭に入れていくのと同じ順番で訳すこと。学校の授業での英文解釈が得意だった人は、主語をぽんと訳して、その後、文章の一番後ろにとんでいってだんだん前に戻ってくる、という傾向をどうしてもひきずっている。これは日本語のしくみとして致し方ないところもあるのだけれど、それでは物事の起きた順番が原文と訳文とで違ってしまうことがある。このことは、また回を改めて書きたい。

 

ただ、あえて逆に、頭から訳せばいいというものでもない、と英語のよくできる人に苦言を呈しておきたい。「7+2×3」という計算問題があるとする。今は小学校4年生くらいで習うらしいが、大人は忘れてしまっているかもしれない。この答が「27」ではなく「13」となるのは、かけ算の部分を先にしなくてはならないからだ。英語の構文を読み解くときも、このルールを忘れて、やみくもに7+2と頭から訳してしまっては間違えてしまうのである。2×3を出してから7と足す。小学生はこの計算をするとき、足し算、引き算、かけ算、わり算が混ざっていたらかけ算とわり算を先にする、とルールとして覚える。英語の読解にもそういう部分がある。

 

言葉にも文章にも、順番のルールがあることを忘れないようにしましょう。