翻訳が一番

 

第1回 読みとばすような箇所こそ大切に

 

原書は、文章の細かな点まで気にせず、単語も筋がわからなくならない限りとばして読むといい。とくに小説は、ストーリーを追ってどんどん読むほうが楽しいにきまっている。

でも翻訳するとなると、そうはいかない。読んでいるときにはとばすような箇所こそ、じっくりと一語も落とさず、日本語にかえていく作業が必要だ。そうしてみて、作者はどの部分も、どの言葉も、それが全体にとって必要だから書いているのだと分かる。とにかく最初は厳密な直訳をして、それから日本語として無理のない文体にしていく。

 

Arthur Hailey の『HOTEL』の一節に次のような文章がある。

 

 There would be plenty of hot water during the heavy demand period soon to come, when upwards of eight hundred people might decide to take morning baths or showers at the same time.

 

この文章の前に、hot-water system (給湯システム)をチェックする少し込み入った描写がある。それに気をとられてか、あるいは the heavy demand で「お湯が必要だ」という状況が頭を占めたからか、前半を「大量のお湯が必要になる」と訳してすませた人が多かった。読んでいるときには、その程度の読み方で大した支障はないのだけれど、訳としては間違い。

訳は、たとえばこうでなくては・・・「大量のお湯が必要になるピークの時間帯が間もなくやってくるが、十分な量はあるだろう」。ていねいに訳していけば分からない文章ではないのに、すっと読んで、そのまま日本語で書いてしまいがち。後半の文章は、「その時間帯には800人以上もの客が一斉に朝風呂にはいったりシャワーをあびたりしようと思うかもしれないのだ」となる。

 

訳はできるだけ素直に、勝手に言葉を省略せず、不必要な説明も加えず、原文に忠実に、でも日本語としてなめらかに。難しい作業だ。でも最善をつくす。楽しみながら。

 

この『ホテル』という作品を選んだのは、原書を読んでみようかな、と思ったときにアーサー・ヘイリーの小説がお薦めのひとつだから。英語があまり難しくなく、知的なエンターテインメントといおうか、アメリカやイギリスに多い、気軽に楽しんで読む小説。この著者についていえば、とくに初期の作品のほうがいい。『Airport』『The Money Changers』『Strong Medicine』など、それぞれある業界や仕事場を舞台に、綿密な取材のうえで書かれている。必ず仕事のよくできる素敵な女性が登場する。

 

 

第2回 音読のすすめ——文章の音とリズム

 

「英文翻訳塾」でみんなで一緒に聞いたテープに、次のような一節があった。

 

I ask myself a question which I cannot answer.

Was Rachel innocent or guilty?

 

ダフネ・デュ・モーリア(Daphne du Maurier)の小説『My Cousin Rachel』は、ロイヤル・シェークスピア・カンパニーの俳優による見事な朗読でテープに収められている。よどみなく、おおげさでなく淡々と、けれども心地よいアクセントのついた朗読が、この「Was Rachel innocent or guilty?」の箇所で、ゆっくりと沈みこむ。朗読では、強調される部分が大声で読まれるよりも、そこだけ速度をおとして読まれることが多い。テープを聞いていると、この部分が全体のなかでもとくに重要なフレーズであることが自然に感じ取れる。

 

翻訳をする場合も、英語から日本語に訳しおえたあと、声に出して読んでみることが必要だ。たとえ声に出さなくても口を動かして読む。そうすると日本語の文章としてのぎこちない部分に気がつく。長い文章の主語と述語がうまくつながっていないことに気がつく。次の文章になめらかに続いていかないことにも気づく。小説でも新聞記事でも評論でも、それぞれが持つべきリズムがうまく訳文にはいっているかどうかも、声に出して読んでみることで確認できる。

英語の原文も、声に出して読むのがいい。全体のリズムをつかむためにもいいが、構文がうまくとらえられないとき、声に出してよんでみると、はっと分かることがある。それは声を出すことによって、その文章にたいする集中度が深まるからでもあるだろう。あるいは、ああ、ここで切るのか、と文章の分析につながることもある。

会話体などでも、言葉はやさしいのに何を言おうとしているのかつかめないとき、声に出すと理解できることがある。マンガや現代もので使われる極端に短いセンテンスも、声に出すことによって省略された言葉が自然に浮かんでくる。

 

作家スティーブン・キングが、こう書いている。「ぼくが子どもの頃、夕食後、家族でよく新聞の連載小説を交代で朗読した。ある晩は兄が読んで、つぎの晩はぼく、そのつぎの晩は母、そしてまた兄・・・というように。それが現在のぼくの作品にも大きな影響を与えている」

 

英米の現存作家の多くは著書を自分で朗読してCDやテープにしている。原書を読みながら、それを書いた本人の声を聞くのもいいものだ。全部読むと録音の量が膨大になるので、ある程度抜粋していることがほとんどだが、どこを選んだのか、また読む場合は原書とはどこがちがうか、目と耳で確かめるのも興味深い。

ところでダフネ・デュ・モーリアは、ヒッチコック監督に映画化された『鳥』や『レベッカ』の原作者。映画を忘れられないでいる人は原作もどうぞ!


 

第3回 冠詞は恋する目ほどモノを言う

『マジェスティック』といいう映画をみた。みている途中でようやく「マジェスティックが映画館の名前だと分かった。原題は『The Majestic』で、the がついているから、幾つかの意味をかけているにせよ、少なくともそのひとつは建物の名前かも知れないという見当はつく。英語をカタカナ日本語にする場合、冠詞は忘れられ、そのため元の意味が伝わらないことはよくある。

冠詞が表現する状況は、ときに大きく、とても複雑だ。でも日本語にないため訳していて、ついおろそかになってしまいがち。もちろん日本語で表現しなくてもいい場合も多いが、原文を読んでいるときは、冠詞を正確にとらえなくては文意を読み違える。そのことを分かっていながら、冠詞で表現されたものが訳になかなか出てこない。冠詞をしっかりと訳せば、文意がいきいきと浮かびあがってくることがある。

アラン・ライトマンの小説『Einstein’s Dreams』は、アインシュタインが見たかもしれないとう設定で書かれた「時」にまつわる30の夢物語で、ひとつひとつの物語も面白いし、まるで詩のような言葉の数々がちりばめられている。「翻訳塾」で取り上げたのは「時間が静止する場所」の話。子どもをいつまでも手元においておきたい親たちや、お互いの愛を永遠にとどめたい恋人たちが訪ねる場所だ。その場所の中心に近くなるにつれて、時はゆっくりとしか動かなくなる。そして次の文章がある。

 A brush of the hair might take a year, a kiss might take a thousand. While
 a smile is returned, seasons pass in the outer world. While a child is hugged, bridges rise. While a good-bye is said, cities crumble and are forgotten.

この文章では、a child 以外のa は、全部、訳出することで文意がよりはっきりする。「髪にブラシを一度あてるのに一年かかり、口づけを一度するのに一千年かかるかもしれない」という訳文に二つの「一度」がなかったら、日本語としてはなんとなく通ってしまうが、文意がきりっと伝わらない。ひとつの a が大きな力を持つ。

冠詞は a、 an、 the の三つしかない。三つとはいえ、日本語を母語とする者にとっては、英語を書いたり話したりするときに一番苦手なもの。英語を母語とする人たちにとっては、理屈なく自然に身についていて、それだけに「絶対必要な表現手段」らしい。この厄介な三つの言葉に慣れるには、冠詞を意識しながら英文を翻訳するのが一番の助けになると思う。英文をていねいに追いながら翻訳をしていくと冠詞の役目におのずから慣れていく。構文は理解できたのに、それでも意味がいまひとつ明確にくみとれないとき、冠詞に注目すると、はっと納得することがある。翻訳の第一歩は原文を正確に理解することにあるのだから、冠詞を味方につけよう。ときには初心にかえって文法書や辞典で数々の例文・事例に触れることも必要。

 

 

第4回 翻訳は立体的な作業

 

翻訳は本と辞書とのニラメッコ、紙の上での仕事と思ったら大間違い。実際に日本語にするのは30分ですんだけれど、その前にいろいろ調べるために5時間かかった、なんてことは珍しくない。調べるために図書館に行くこともあるし、インターネットを駆使して、ということもある。人に聞いたり、関係する企業や官庁、団体に電話をしたり、ときには文中に出てくる曲をCDで聴く、ということも。原文を十分に理解するためには、歴史的背景や地名の位置など、調べなくてはならないことが数々ある。

 

たとえば人名について。

まず筆者については、小説はもちろん、エッセイや評論も、どこの国のどういう人が書いているのか知らなくてはならない。それから、文中に実名が出ている場合は、その人についても調べないと思わぬ間違いをする。そうやって調べていくうちに、意外な人のつながりを発見したりするのも翻訳の楽しい一面だ。

 

「翻訳塾」で、往年の歌手ローズマリー・クルーニーの訃報を新聞記事から訳した(2002年6月30日付)。全盛時代が1950年代とあっては歌を聴いたことがある人も少なく、こういうときは、何かほかの資料にあたり、彼女について下調べをしてから訳すのがいい。記事の中には結婚相手だったホセ・ファーラーという名前も出てくる。彼は有名な映画俳優だったのだが、それを調べた人の訳は、たとえそのことに触れていなくても、おのずからしっかりとしていて読んだときにすぐわかる。過去の人のように思えたクルーニーが、最近も活躍していたとわかったのは、記事中に、

 

She was nominated for an Emmy Award for an appearance on "ER," the television series that featured her nephew George Clooney.

 

とあったからだ。テレビシリーズ"ER" はNHKでも放映されていて、かなり視聴率が高い。この番組の邦題をしっかりNHKに問い合わせた人もいた。ただ、その人はそこまでしたのに思い込みから「緊急救命室」を「救急救命室」としてしまったと白状。これもまた、よくある失敗で、微笑ましい。それでも調べないで書くよりは、はるかに素晴らしい仕事をしているのだ。

 

さて、同じクラスで、数週間後に短いエッセイをひとつ訳した。筆者は、映画にもなった『ジュラシック・パーク』や『大列車強盗』で日本でもおなじみのマイケル・クライトン。このクライトンが1994年に「ER」の原案や脚本に携わっていたことが、それぞれが調べた資料でわかった。「ER」つながり、とでも言おうか、偶然ながら人のつながりを発見したわけだ。こういうことはよくあり、翻訳が単なる字面の作業ではなくて、人を感じ、自分もまたその連なりに関わるのを感じる場となる。大げさかもしれないけれど、生きている喜びに近いものを覚えるのは、こういうときだ。

 

もう1本、「翻訳塾」でとりあげたワシントン・ポスト紙の記事は、キューバの衰退する砂糖産業に関するものだった。キューバとくればカストロ、そしてチェ・ゲバラ。経済記事を訳すのに二人の経歴まで調べる必要はないように思われるが、記事にこういう部分があった。

 

Che Guevara, Castro's comrade-in-arms who remains one of Latin America's most powerful revolutionary symbols, came here in 1962. In a show of solidarity with workers, Guevara slashed cane and helped feed it into the mill, ・・・

 

この部分で、ゲバラがまだ健在であるように訳されているものがあった。たしかにこの英文だけでは remains(残っている) という言葉に注目しない限り、今も活躍中ともとれる。でもゲバラは1967年にボリビアで処刑され、革命家としての生涯を閉じた。ちょっと調べれば間違わずに訳せるわけで、それは文法上のミスをしないよう集中するよりも大切なことだ。文法上のミスは、日本語として訳がどこか不自然になる。自分が気がつかなくても、誰かに読んでもらえば、ちょっとおかしいのではないかとたいてい指摘される。でも内容については訳者が責任をもたなくてはならない。

ついでながら、カストロは President Fidel Castro と記事中にあった。いつも注意しなくてはならないのが president の訳。会社だったら社長なのか会長なのか、大学だったら学長なのか総長なのか、あるいはさらに違う訳になるのか、調べなければ訳しようがない。カストロはこのとき、国家評議会議長で元首。この場合は議長と訳してほしい。せっかく調べたのに、資料が古かったため「首相」とした人もいた。残念。本当に翻訳は立体作業なのだ。

 

 

第5回 やっかいな固有名詞

 

日本語を外国語に訳している人が「小林」という名前を「Kohayashi」という表記にしていたら、どうだろう。この訳者は日本のことにあまり通じていない、という印象を受けるのではないだろうか。同じことは、外国の名前を日本語にするときにも言える。外国人の名前をカタカナで表すこと自体、無理だと息巻いてみても、翻訳するからには名前も日本語の文字で表さざるをえない。

 

もちろん、とくに人の名前については、「発音に近いカタカナで」といっても一筋縄ではいかない。本当はどう発音するかは本人に聞いてみなければ絶対に分からない。ご本人に聞いてもそれをカタカナで再現するのは至難のわざだし、ご本人に聞けないときはなおさらだ。でも、出来るところまで努力するのが翻訳者の務めだと思う。

 

しっかり考えたうえで固有名詞を表記することは、英語ができる、できないということと関わりなく、翻訳された内容の信頼性につながる。「小林さん」を「こはやしさん」とか「しょうりんさん」とか呼ぶのが正しい場合もあるかもしれないが、十中八九、「こばやしさん」だろう。特定の個人を指していず小説などに出てくる「小林さん」は、やはり「Kobayashi san」としたい。

 

十中八九そうだと思われる発音で人名や地名を表す——それが基本なのだが、簡単なことではない。どうしたらいいか。まず、辞書を引く。辞書には固有名詞もたくさん記載されている。調べたい地名、人名そのものが載っていなくても、同じスペルの単語から推察できることもある。次に、できれば関連する本や新聞をあたって、これまでにどういうカタカナで表記されているか、本来の発音はどうなのか、調べてみる。普通名詞から推測してカタカナにすると大きな間違いにつながることもあるので、チェックする上で骨惜しみをしないこと。要は最大限努力することにつきる。こういう丁寧さが必要とされるのが翻訳だ。ただ読むだけなら、ここまでしなくてもいい。

 

たとえば、長年「ステフェン」と表記されていた名前がある。スペリングはStephen。よくある名前だが、「スティーヴン」が元の発音に近く、本人に聞けばほとんど例外なくスティーヴンだと言う。作家のスティーヴン・キングや映画監督のスティーヴン・スピルバーグなどなじみのある名前だが、このスペリングに惑わされないように。「ステフェン」は日本でローマ字読みをしたものが、間違ったまま定着しているのだ。

 

人名は日本の場合と同じく、絶対的な読み方はなく、きわめて個人的なものかもしれないが、それでもおおよそ決まっていることが多い。英米人によくある名前で、とくに姓と名前を混同しやすい例をあげてみよう。

 

William ウィリアム(名)  と  Williams ウィリアムズ(姓)

Edward   エドワード(名)  と  Edwards   エドワーズ(姓)

Phillip   フィリップ(名)  と  Phillips    フィリップス(姓)

 

上記のStephen スティーヴン(名)も姓の場合はStephens スティーヴンス(姓)となる。

 

また、地名のReading は「リーディング」としたくなるところだが、辞書をひけば、同じスペリングをもつテームズ川に臨むイングランド南部の独立自治体も、米国ペンシルベニア州南東部にある都市も、イギリスの著名な法律家も、「レディング」とカタカナ表記されていることが分かる。

 

一方、発音になるべく近く、という原則どおりにいかないこともある。本来の発音とは違うと分かっていても、広くいきわたってしまったために、誤解を避けるためにももう変えられない表記もあるからだ。「オードリー・ヘップバーン」は「オードリー・ヘバン」の方が発音に近いと今さら知っても、とつぜん勝手にそう書いてみたところで誰のことを指しているのか分からないだろう。

 

やっかいな固有名詞。意味をとるだけが翻訳ではなくて、音の再現もその重要な一面なのだ。