翻訳が一番

 

第21回  侮れないand 、頼りになる and

 

英語の文章で一番たくさん使われる単語は冠詞(a, an, the)とand だとか。クロスワードパズルでも3つ並びは まず the  and を考えるし、たしかに and にはよくお目にかかる。そしてあまり深く考えず、たいていは「と」と訳してしまう。

 

でもand に対応する日本語はいろいろある。それをうまく駆使すると、いかにも「翻訳しました」という文章から脱皮できることもある。事実、「と」と訳したのでは少しずれた感じがする場合がある。たとえば「野菜と肉を買った」と「野菜や肉を買った」では、ニュアンスが若干違う。でも英語ではどちらも We bought vegetables and meats. で、前者なのか後者なのかは前後関係で推察するより仕方ない。このように、翻訳していると、and を「と」にするか「や」にするかでよく迷う。

 

ほかにも and にあたる日本語は数多い。「および」「そして」「それから」などもあるし、このコラムの第12回で書いたように、二つの文章をつなぐ場合は、and の意味するところが先の文章の末尾(〜だが、〜で、〜して、などなど)に吸収されることもある。

 

文章の構文がうまく解きほぐせないとき、and はきわめて頼りになる指針だ。二つ以上のことや物をつなぐとき、and は最後の語句の前にだけ置く。We bought vegetables, meats and others. のように。vegetables  meats の間に and はおかない。これを文章を読みとくときに応用する。

 

To journey there was to show great strength and courage, qualities of utmost importance to the Chinese.

 

この文章をさらっと読んで、こう訳したものがあった。

 

「そこに旅することは、中国人にとってなによりも大切な強さと勇気と才能を示すことだった」

 

でもこの日本語になるには、great strength, courage and qualities of ・・・となっていなければならない。そう、and の位置が違う。原文で and がつないでいるのは great strength  courage だけなのだから、次のようにならなければいけない。

 

「そこに旅することは、強さと勇気、つまり中国人にとってなによりも大切な二つの資質を示すことだった」

 

次の文章はどうでしょう。すぐに理解できるだろうか。

 

By the 1880s, widespread hardship in eastern and southern Europe, the pogroms in Russia and the massive economic failure in southern Italy forced thousands to flee the Continent.

 

これは、「widespread hardship in eastern and southern Europe」「the pogroms in Russiaand the massive economic failure in southern Italy」とand の位置をしっかりと確認することで、主語部分をしっかりと三つに分け、その三つをまとめて動詞の forced が受け止めているのを見つけることができる。長い主語だけれど、and の働きを見きわめれば、文の構造がきちんと解釈できる。この訳は次のようになろうか。

 

1880年代までには、東欧と南欧に広まった危機、ロシアにおける大虐殺、そして南イタリアでの大規模な経済破綻によって、人々が何千という単位で欧州大陸を逃げ出すこととなった」

 

長い文章のどこが切れ目なのか迷うときには、この and の使い方の特性に助けられることが多いので、試してみてください。それからこの際、大辞典を持っていたら、and を一度じっくりと読んでみてはどうでしょう。改めて発見することがたくさんあると思います。話し言葉のときの and の発音は p/b の後では m となるとか・・・つまり cup and saucer  cup-m-saucer と発音されるそうさ。


 

第22回  人をつくることの難しさ

 

翻訳者は本当に恐れ多い作業をたくさんしなくてはならない。そのひとつが「人物」をつくること。作者がそれぞれ意図をもって、紙上に描き出したさまざまな人間像を、翻訳者は自分の理解であらたな息吹きを与えて登場させる。そこに現れる「人物」は、訳者によってまったく違う印象を持つことがある。長篇小説だと、主人公とほかの人間との関係や時代、性別、年齢、状況などによって、全体の中でおのずから決まってくる部分が多いが、もちろんそれでも言葉遣いなどは訳者によってかなり印象が違うものになる。そして、会話の運び方は話全体の雰囲気づくりにおおきく影響する。

 

私は、登場人物になるべく翻訳者の気持ちを付け加えないように努力するのと、もうひとつ、若い女性だったらこういう言葉遣い、男性のお年寄りだったらこう、というようなパターンには陥らないよう、常に自分をいましめている。それでも、私なりのイメージというのがあって、翻訳者がまったく無色透明でいるのは難しい。でもいつも心にいましめを持っていれば、狭い落し穴に読者をいっしょに引きずり込むことはないのではないか、と思う。

 

さて、難しいのは短篇での人物。とくに短篇での会話文はピリリとアクセントになることが多く、短篇だけに、原文からその人物像をイメージするのも困難だ。

 

"Just the Way You Are" というビリー・ジョエルの歌があるが、それがそのままタイトルとなった短いエッセイに、こういう光景が描かれている。あるプロデューサーが地方でイベントを終えたところに一人の婦人が近づいてきて、「あなたの作品には私の息子の曲がぴったり」だと思うと言う。プロデューサーが、デモテープを作って送らせるようにというお定まりの説明をすると、

 

.... the woman gave him a funny look and said, "Well, my son is Billy Joel."

 

さて、この母親の言葉をあなただったらどう訳すでしょう。「あのー、息子はビリー・ジョエルなんです」というのが穏当なところかしら。これを「・・・ビリー・ジョエルなんですよ」と一文字加えただけで、知らないの? といった感じが流れて、ちょっと雰囲気が緊張する。「・・・ビリー・ジョエルなんですけど」とすると、母親の少し困った感じが表れる。これを「実は、うちの息子はビリー・ジョエルなんですけど」と訳した人は、しっかりした母親像をイメージしたと言った。なるほど。ついでに幾つかをご紹介しておこう。本当に訳者が10人いれば、10通りの訳が出てくる。

 

「あの、息子というのはビリー・ジョエルなんです」

「あのね、私の息子というのはビリー・ジョエルなのよ」

「ええ、ところで私の息子はビリー・ジョエルなの」

「えーと、息子はビリー・ジョエルなんだけど」

 

この短い言葉ひとつで、読者が思い浮かべる婦人の人物像はさまざまに変わってしまう。それでも翻訳者は困ってばかりもいられない。判断と決断の連続なのだから、翻訳は。そして新たな人物をこの世に生み出していくのです。


 

第23回  決まった訳語にとらわれないで

 

大勢の人の翻訳を見せてもらっていると、ときどき、ほとんどの人が同じ訳語を当てはめる言葉がある。その英語にはこの日本語しかない、というようにどの人からも同じ言葉で訳が出てくる。その訳が文脈にぴったりと合うのであれば問題はないが、訳文全体を読むと、もっと別の表現がふさわしかったり、その訳語では意味が通じにくかったりする場合も多い。とくに文の最初に出てくる副詞は、その後にどういう文章が続こうとも、考えなく決まった訳になってしまう場合が多くて、残念に思う。

 

たとえば次のような文の場合。

 

Obviously, music is a powerful force in your life.

 

多い訳が「明らかに、音楽はあなたの生活のなかで強い力となっている」というもの。前後のつながりにもよるが、とくに語気を強調しているわけではない、この obviously などは、中にいれて「音楽があなたの生活のなかで強い力となっているのは明らかだ」とする方が、滑らかに読める。

 

またtherefore は、なにがなんでも「それゆえに」と訳される。たしかに so とかthen などよりは固い言葉ではあるけれど、前後の文体が柔らかな流れで訳されていて、とつぜん、「それゆえに」と出てくるとびっくりしてしまう。

 

Therefore, she decided that her leaving home would not be just running from somewhere but would be running to somewhere.

 

これはE.L.カニグズバーグの児童文学『From the Mixed-up Files of Mrs. Basil E. Frankweiler』からの一文。「わたしの家出はどこかから逃げだすのじゃなくて、どこかへ逃げるものにしよう」と少女が決心するくだり。ここでは「それゆえに」よりも「だから」とか「それで」の方が therefore の訳にはふさわしい。

 

ほかにも instead of を、必ず「〜の代わりに」とするのではなく「〜せずに」と訳したり、perhapsprobablysimplyactually なども、そのときどき、その文章の中での使われ方によって訳語を変えると、ずっといきいきとした訳になる。

 

また似たような判断が必要なのに this  that がある。this だったら「これ、この」、that だったら「あれ、あの」というパターンから抜けてほしい。時制や状況から、実際にどういうことを指しているのか判断したうえで「この」「あの」「その」をうまく使い分けること。同じように英語の中では today を過去形といっしょに使うけれども、日本語の過去形の文章では「今日」は、その日の終りまで。だから何日だか何カ月だか前にすでに終わったことを過去形で書いている次のような文章では、today を「今日」とすると時間の感覚がずれてしまう。

 

For the past six months I had been coaching Louise. Today we would swim fifteen miles.(その半年、私はルイーズのコーチをしていた。その日私たちは15マイル泳ぐことになっていた。)

 

辞書なしでは翻訳はとてもできないけれど、辞書に出ている言葉だけが唯一の訳語ではないことを、いつも意識していましょう。要は、ひとつひとつの言葉だけで理解せず、言葉は文章の中で、ひとつの文章は節の中で、ひとつの節は全文の中で理解しないと、原文に即した訳はできないということです。

 

そうそう、単語で、girl  boy は、とくに注意。なぜか「少女」「少年」と訳してしまう。学校で同級生は「少年少女」より「男子と女子」だし、「子どもは男ばかり3人です」を「少年3人」とは言わないと思うのに、翻訳となるととつぜん、そういうおかしな表現を平気でしてしまいがち。百歳でも girl だったりboyだったりするのが英語の自然な環境なのだ。


 

第24回 やさしい単語も辞書でa few 」と「 see 」の場合

 

翻訳には辞書がつきものである。知らない単語に出会ったときだけでなく、この単語にはもっと別の意味もあるのではないか、日本語として別の表現があるのではないか、熟語/成句の一部ではないか、この訳の漢字はどう書くのだったかしら、などなど、ひっきりなしに辞書に頼ることになる。

 

お薦めしたいのは、たまには知っている単語をじっくりと辞書で見ること。その単語は自分にとってやさしければやさしい方がいい。意外と思い違いをしていることが多い単語をふたつあげてみよう。

 

まずは「few」で、とくに「a few」となったとき。これを「2、3」と訳す人がとても多い。もしかすると、学校教育やひと昔前の参考書がこうなっていたのかもしれないと、自分のことを考えても思い当たる節がある。私もかなり長い間、「2、3」と覚えていたような気がするから。でもそれは大いなる誤解で、a fewは「2、3」である場合もあるかもしれないが、「3、4」だったり「5、6」だったりする。

 

たとえば「ジーニアス英和大辞典」では few の形容詞の2番目の項に、次のようにある。「a few(「有る」ことに焦点をあてて)いくらかの、少しの、多少の(1)具体的な数は文脈による(2)a は元来 some (およそ)の意」

 

だから訳すときは具体的な数字はあげないで、「数」とつけておくのが一番ぴったりする場合が多い。例えば in a few weeks だったら「数週間のうちに」、a few people だったら「数人」とする。ついでに quite a few となると、not a fewと同じで、「かなり多数の」となることもチェックしておこう。

 

もうひとつは「see」。20人ほどの次の例文訳を見せてもらったとき、この語を「見る」としか考えない人が多いことに気がついた。

 

I used to see this furniture, sometimes, in the flats of Jewish refugees in Hampstead or Highgate. (from "A Place to Hang Your Hat" by Bruce Chatwin)

 

この文章は前後の文脈から考えて、「これらの家具がハムステッドやハイゲートのユダヤ人難民が住むフラットにあるのを、私はよく思い描いたものだった」とするのがぴったりくる。でも大方の訳は「・・・私はときどき見たものだった」となっていた(ちなみに furniture は集合的に単数扱いとなる)。「see」をたとえば上記のジーニアス英和大辞典でひくと、最初にあるのが他動詞の訳で、「1(人が)(人・物)が見える、目に入る、〜を(夢などで)見る」とある。

 

つまり look at  watch にくらべると、実際に「見る」よりも「見える」「想像する」という感じが強い。翻訳の数をこなすことで、出会う単語と、それがもつ意味の幅の広さを実感する例かもしれない。

 

辞書をたくさんひきましょう。


 

第25回  直訳するとき、しないとき

  

「直訳でいいのですか」「もっと意訳すべきでしょうか」。こんな風に聞かれると、私は返事につまってしまう。どうすることが直訳なのか、意訳ではない訳というのはあるのか、はっきりと線引きできるものではないから。Good morning.を「おはようございます」と訳したら、これは意訳? 直訳するとしたら「いい朝」? それでこの場合、直訳の方は間違い? そんなことはない。前後関係や文脈によって「いい朝ですね」と訳すことだってありうる。別れるときのせりふとして「どうぞ、よい朝を」「ごきげんよう」という意味で使われることもある。

 

ミュリエル・スパークの小説『The Prime of Miss Jean Brodie (邦訳「ミス・ブロディの青春」)』を映画化した作品に、こんなシーンがあった。ブロディ先生が授業をしているとき、とつぜん校長先生が入ってきて、どうして歴史の授業なのに生徒の一人が感激して泣くことなどあるのかと問いただす。説明されてもなんとなく釈然としない校長先生は、教室を出ていきながら言う。"Good morning."

 

このとき、あなただったら、どう訳すでしょう。この使われ方はよくある。先日の朝、私は自宅の近くで外国人から郵便局の場所を英語で聞かれた。教えてあげるとその人は嬉しそうにお礼を言って、そちらの方に歩きながら、まだ信号待ちで立っていた私に向って大きな声で言った。"Good morning!" 私はこう答えた。"You, too."

 

この例でわかるように、翻訳は基本的に意訳でしかありえない。英語で何を言っているのか理解し、それを日本語で表現するのが英文翻訳。でも使われている言葉も文体も大切にしたいと思う私は、可能な限り原文で使われている言葉を活かしながら、それを表現する日本語を探したいと思っているし、長い文章は長く、短い文章は短く訳そうと心掛けている。

 

前にもあげたブルース・チャトウィン(Bruce Chatwin)のエッセイ「A Place to Hang Your Hat」に次のような箇所がある。

 

In my 'art-world' days I was a voracious collector, but only a few pieces remain. Sold the Egyptian relief. Sold the Archaic Greek torso. Sold the fifth-century Attic head. Sold the Giacometti drawing. ・・・・

 

この「売った」美術品を畳みかけるようにあげていくところを、訳ではなぜかまとめてしまう人が多かった。「エジプトのレリーフも、アルカイック期のギリシャのトルソも、五世紀のアテナイ文化の頭部も、ジャコメッティの素描も売ってしまった」というふうに。二つか三つずつ分けてまとめる人もいた。でも私なら原文通りにする。つまり「エジプトのレリーフを売った。アルカイック期のギリシャのトルソも売った。五世紀のアテナイ文化の頭部も売った。ジャコメッティの素描も売った」とする。こう書いてあるのだから・・・しかもその通り訳すことが原文のリズムと合うから。

 

実際には翻訳はすべて意訳であるとしながら、「まずは直訳してください」とも私はよく言う。文章の構文が複雑で節や句のつながり方がわかりにくいときや、内容が理解しにくいとき、適切な訳語がとっさには見つからないときなど、いい加減に推察で訳したりするよりも、一語一語たどっていって直訳する方がはるかに原文を忠実に反映できる。原文を忠実に言葉に置き換えてみたうえで、日本語として自然な表現方法を探ることが、結局はいい訳につながる。分からないから幾つかの言葉を省略したり、読んだときの雰囲気だけで日本語にしてしまうよりも、直訳の確かさを私はおすすめしたい。


 

第26回  会話の訳は、難しさを楽しんで

  

会話の訳の難しさに、翻訳をする人はだれでも突き当たると思う。芝居が好きな私は、科白があるとがぜん張りきり、楽しんでしまうのだけれど、難しいことには変わりない。たくさんの人の翻訳を見ていると、人は会話が得意な人とそうでない人の二種類に分けていいのではないかと思うことがある。会話にかかると、がたっとぎごちなくなる人がいるかと思えば、のびのびと楽しく言葉じりを工夫する人がいる。

 

言うまでもなく会話部分はとても大切で、その表現で登場人物の人間像のすべてが決まってしまうことは前にも書いた(第22回)。よくある質問は、小説とか記事に頻繁に出てくる she said とか he says などを全部訳すかどうかということ。基本的には、忠実に全部訳さなくてもいいことが多い。訳すか訳さないかは、なんのためにそれが書いてあるのか、状況から判断する。

 

たとえば英語の場合は、he said などと入れないと誰が言っているかわからないから入れることがある。日本語では会話体によって老若男女の区別なども表現できるので、ひとつひとつの科白について、これは誰のものだと示さなくてもわかる。だから男女の会話のときなど、言い回しや話の流れからおのずと誰が言っているかわかる場合、訳では省略しても構わない。また、he said  she says などが会話の間にはいっていることもよくある。

 

"There are other places, on these streets nearby," he says, "that are a bit classier, and they are always full of people."

 

日本語にしたとき、どこに「彼は言う」を入れたらいいだろう。まず原文の形に忠実に次のようにすると、ちょっと読みにくい。

1「この辺りにはほかにも店があって」と彼は言う。「もう少し高級で、いつも満員ですよ」

次に二つの訳例をくらべてみる。

2「この辺りにはもう少し高級な店もあって」と彼は言う。「いつも満員ですよ」

3「この辺りにはもう少し高級な店もあって、いつも満員ですよ」と彼は言う。

 

どちらでなくてはいけない、ということはないが、このパターンが幾度も出てくるなら、3の方が日本語としては読みやすいと思う。どこかを強調したいからではなく、英語の習慣的な形として he says などが入っている場合は、日本語として読みやすい、自然な形を考えるのがいい。ただし、文章の流れやリズムを取るために効果的に挿入されている場合は、よく気をつけて。

 

さて、もうひとつ、会話であげておきたいのは、会話こそ文章の全体がわからなければ訳せないということ。同じ言葉でも状況いかんでまったく別の意味になることだってあるのは、前回の good morning がいい例。また、会話には、文化的な背景や習慣などがわかっていないと十分に理解できないものも多い。

 

And I remember that we went singing carols once, when ・・・(略). We reached the black bulk of the house. "What shall we give them?" (Dylan Thomas "A Child's Christmas in Wales")

 

この科白の部分は、少し前にある文章の「went singing carols = キャロルを歌いに行った」から考えて、「歌は何にする?」という意味。まず、クリスマスには子どもたちがよその家とか病院などの前に行き、外で立ったままキャロルを歌うという習慣があることを知らないと、前の文章を「キャロルを歌いながら行った」ととってしまっても不思議はない。そうすると余計、そのあとの科白の意味がわからなくなって「何をあげる?」なんてことになってしまう。

 

会話の訳は難しいけれど、これぞ翻訳の醍醐味でもあるから、映画の監督か脚本家になったつもりで楽しみましょう。