98字日記ー2022年5月

5月31日(火)
ジャネット・ウィンターソンの「オリオンとアルテミス」にまつわる短編訳を毎週クラスで終える。2024年目標の米政府・有人月面着陸計画が「アルテミス計画」と呼ばれている。女性が初めて月に降り

5月30日(月)
コロナの蔓延以来、人が集まる機会がなくなり、お葬式の案内を受け取ることもまったくなかった。でも儀式を通してこそ、ひととの別れが深く胸に刻まれる。幡ヶ谷での告別式で棺の中の恵理さんをお花で埋めた。

5月29日(日)
相変わらず一日の何分の一かは探しものをしている。あるべき所になくて、あちこち探し、やっぱりあるべき所にあるのではないかと、そこに戻るとちゃんとある。こんな風にばたばたと生きていていいものかしら。

5月28日(土)
納豆は夜に食べるといいと知ったので、これまでの朝食と夕食を逆にしようと思う。それで朝から本格的にポモドーロ・スパゲティに取り組み、最高のソースが作れた。でもたっぷり二人前。昼食はアラビアータ?

5月27日(金)
本を整理しようと思って、これはいらないだろうと棚から1冊抜く。古くて字が小さくて紙も黄ばんでいる。でも少し読むと面白い。もう一度読んでからにしよう、とか、読みたい人もいるかも知れないと思って戻す。

5月26日(木)
北村恵理さんの印象はボーイッシュ。爽やかで優しく、声が静かで、髪はショート。ケルトが好きで、イタリアのお菓子を作る。細やかで温かいイラストを描く。素敵な理系のパートナーをもつ。58歳で昨日、逝去。

5月25日(水)
上野から帰る時は一刻もはやく上野から離れる。動物園関係の会議があった時は、すぐにタクシーで御徒町のメトロ駅に出ていた。昨日、ふとJRで帰ろうとして迷いに迷ってしまい、今日まで疲れを引きずることに。

5月24日(火)
創造展をみに都美へ。ほとんど人の姿のない静かな会場で多様な創作の息吹に触れるのは心地よい。アートを生むのはプロだけではないことを実感する。永松素子さんの作品は3点。二童子と菩薩像。凛とした品があった。

5月23日(月)
「藜」が読めず、辞書で「あかざ」と探しあてる。その音(おん)には覚えがあり、朧な記憶から芥川龍之介の短篇『ピアノ』にたどり着いた。そうだった。関東大震災の後の横浜でピアノが藜に埋もれていたのだ。

5月22日(日)
あっけなく過ぎていく五月。ジョージアの映画とかジョージア語について自分の知識をまとめておく必要があり、勝どきの部屋に数時間、籠る。隅田川の水面が日の光をきらきらと跳ね返し、そこだけ、ああ、5月。

5月21日(土)
市や区の単位でまだ毎日100人、200人というコロナ感染者数が報じられているのに、駅などの雑踏が日常化してきた。ワクチンを接種すれば安心なのだろうか。第四回目の接種予定が区報で届いた。前回から5ヵ月後。

5月20日(金)
ナンシー関の没後20年で週刊文春のGW特大号をつぶさに読む。持っている限りの本を棚のあちこちから引っ張り出す。『いま、なんて言った?』『記憶スケッチアカデミー』・・・。稀有な書き手、大好き、今も。

5月19日(木)
ビルケンシュトックの夏用のサンダルが届いた。セールでMが選んでくれたもので今年はシルバーで台がコルクと白。今日の新宿では、皆勤のひとが遅刻した。ロビーで眠ってしまっていたという。ああ、夏の気配。

5月18日(水)
「振り向く」ことで約束が壊れてしまう・・ギリシャ神話で竪琴の名手オルフェウスが犯した失敗は古今東西の物語に受け継がれている。でも turned ひとことの訳が意外と出てこなかった。私も振り向くのはやめよう

5月17日(火)
久しぶりの歌舞伎座、午前の部に。座席数はほぼ三分の一に限られていて寂しいものの、Mと私の席は理想的な花道横だった。「金閣寺」は松緑、愛之助、雀右衛門などの登場で大立回りも桜吹雪もあり、楽しかった。

5月16日(月)
いわゆる「お役目」のある会議に出るのは今日で最後になった。これで本当にフリー。朝日カルチャーは3ヵ月ごとに契約をかわすので、身分としては、いつ辞めさせられても不思議はない。でも楽しいから固守している。

5月15日(日)
ここに誰かの名前をあげることは多くない。でも今日、四人で会ったことは特別な気がする。平野公子さん、吉良幸子さん、佐々木未来さん。低空飛行を続けていた私が突然、高く飛ぼう!と思わされたのだから。

5月14日(土)
今晩のノンアル「グリーンズフリー」は老舗キリンの新商品。確かに爽やか。でもアサヒの「ドライゼロ」やサントリーの「オールフリー」より少し水に近いかな。アサヒの「ヘルシースタイル」がなかなか買えない。

5月13日(金)
衣奈多喜男さんの『ヨーロッパ青鉛筆』を1988年に朝日ソノラマが再刊した、文庫版『最後の特派員』を探し出す。なんと貴重な、優れたドキュメンタリーかと改めて思い、熱く静謐な文章に衣奈さんご本人を想う。

5月12日(木)
何がきっかけかは分からないながら、ふと、心が軽くなった。空が灰色から薄青色に変わったような。別れが多すぎて、すっかり晴れ上がることはないけれど、諦めへの寄り掛かりかたを覚え始めたのかもしれない。

5月11日(水)
きのう平野新介夫人と電話で話した。先輩は1月に亡くなられていた。昨年の11月からもしやと怖れていた私は事実に向き合いたくなくて、ずっと確かめないでいた。阿部さんと3人で最後に行ったのは野鳥の森だった・・

5月10日(火)
(続き)その5年後に新京では、夕食時にロシア兵達が土足で家に上がりお膳を蹴とばした。坊主頭で男の服を着た姉達はとっさに押し入れに隠れていた。母と幼い私と弟を見て兵隊達は何もせず出て行った。怖かった。

5月9日(月)
ロシアが攻撃をやめない。私は大連のロシア風洋館に生まれ、お祝い返しに「内地」に送った箱詰めのロシアのチョコレートは「何十種類ものキラキラ光る紙に包まれた一つひとつが夢のように綺麗」だったという。

5月8日(日)
店先で足元のペダルを踏んで手を消毒し、歩く以外に足を働かせることがなくなったと思う。ミシン。私の服や真っ白な下着はいつも母か姉がカタカタと縫ってくれた。オルガン。ああ、あの伸びる音色が懐かしい!

5月7日(土)
連休の狭間の土曜日に横浜のクラスは全員出席でうれしい。難しい小説を読めるひとが、ごく易しい児童書の訳で躓くのは何故? 文章や段落で把握せず、単語で内容を推しはかる癖が付いているからではないかしら。

5月6日(金)
私が「持ちうる限りのいいものを携えて生きてきている」って、そんな、そんなはずないじゃありませんか。私を励まそうとして言ってくれたにしても、ぜ〜んぜん当たっていません。私だって寂しい時があります。

5月5日(木・祝)
鳥取で終末期医療をしている診療所院長のことばの数々が胸におさまった。「旅立つ前に固まった心が動く。意地を張ったり、恨みを募らせたり、心をこわばらせてきたものがパカっとはずれる。素の自分に帰る。」

5月4日(水・祝)
 朝9時に家を出て本日の遊び、開始。待望の映画『見えるもの、その先にーヒルマ・アフ・クリントの世界』をユーロスペースで。とにかく実際の絵を見たくなる。文化村で『ボテロ展』をみる。花と果物がよかった。

5月3日(火・祝)
ベルリンの永井潤子さんが先月、亡くなられていた。一世代下の大学後輩・今居美月さんが知らせてくれた。永井さんが『英語と・・』を一昨年、公園のベンチで「いい本でね」と話してくれたという。想い、溢れる。

5月2日(月)
予定なし連休! 添削に追われずに過ごせる。と言っても添削も楽しみの一つで、ゆっくりとやれるのが嬉しい。ややこしいジャネット・ウィンターソンの作品を選んでしまい、自分でも赤道座標や星座の勉強をする。

5月1日(日)
四人の選者全員が選んだ奈良の山添聡介くんの短歌。「体いくかんでしゅうりょうしきをしていたら外からものほしざおを売る声」。でもこの弟の言葉を拾った、以前の葵ちゃんの一首が好き。「弟が父に短歌を教えてた『ならったかん字はぜんぶつかいや』」。