98字日記ー2020年5月

5月31日(日)
ダイナ・ショア、ヴィッキー・カー、ジュリー・ロンドンなど女性ヴォーカルを聴く。懐かしく甘く哀しく美しい。勝どきのベランダから見晴らす築地市場はほぼ平らになり、浜離宮庭園の森が大きく姿を現してきた。

5月30日(土)
人との接触を避けてリモート出演する人たちが枠におさまってTV画面に顔だけ見せ、聞き取りにくい話をする各ニュースショウに飽きた。その上、文字をぎっしり詰め込んだパネルを 並べ、mc はそれを読むだけ。

5月29日(金)
書棚の埃を払っていると読み直したい本が沢山ある。須賀敦子の文章に澄明な世界へと小川洋子にやさしく切ない夢へと、運ばれたい。室生犀星『火の魚』はTVドラマが強烈な印象を残しているけれど原作は読んだ?

5月28日(木)
ふとピカソの青の時代に気持ちが滑り込む。若い頃に様々な解説とともに頭で理解したつもりになっていた幾つかの作品、とくに La vie に知でなく情で我を重ねる。そして心が揺らぐ。どこか一点に重なるのではなく。

5月27日(水)
自分にとってとても重要なことをこの98字では書かないことがある。あの年のあの日、なにをしていたのかと見ると、一日中ゲームをしていたとか歩いていたなどとある。嘘ではないけれど、大切なことはしまって。

5月26日(火)
映画の任侠物はこれまでただの一本も見たことがなかった。家でぼうっとしていてNHKBSで『緋牡丹博徒』を見る。藤純子と高倉健がなるほど、かっこいい。丁半もなるほどだった。あれで決めるって凄いことね。

5月25日(月)
数日前の天声人語に取り上げられたのは最近亡くなった井波律子さん。私は『破壊の女神』で中国史上の痛快な女性達の振舞いを堪能した。小学生のうちに映画を2千本見た通だったとか。エッセイをもっと読みたかった。

5月24日(日)
人生って・・。若い時は自分が80歳まで生きているとは思わず、生きていても超老人だと想像していた。それなのになってみると、身体こそ動かないけれど、なにも変わっていない。若い時からずっとつながったまま。

5月23日(土)
久しぶりに午後中、勝どきで翻訳の添削をしたりコメントを書いたりして横浜2クラス全員の分を仕上げ、ユーパックでポストへ。教室に座るまであと2、3週間は必要でしょう。隅田川に春の陽光がキラキラ走っていた。

5月22日(金)
Google のトップページのイラストは時に奥深い。今日はジンバブエ・ショナ族の楽器ムビラが紹介されていて、指示通りに弦に触れると演奏できるようにすらなっている。デジタルの世界は何て広い。Mに教えられて。

5月21日(木)
エイドリアン・ライン監督は『フラッシュダンス』以外に好きな作品がなく、テレビでみた『運命の女』もまあまあだったものの、幾度もうまいと思った。伏線、小物、ダイアン・レインとリチャード・ギアの演技!

5月20日(水)
夏の高校野球とその前段の地方大会も中止に決定。「戦後初めて」が次々と生じる。日々の外出が抑えられる状況は高齢者達には穏やかに受け止められているようだ。ライフラインも食糧や水も不自由ないのだから。

5月19日(火)
朝刊はたいてい朝4時に玄関に届く。その頃に目がさめると1時間弱かけてベッドの中で読み、5時にクラシック倶楽部をつけ、今朝はニュウ・ニュウのオールショパンだったのに最後まで聴かずに2時間位眠り、夢をみる。

5月18日(月)
紙は黄ばんで破れそうでも、上司や師匠がくれたメモは捨てられない。「京の三条の糸屋の娘  姉は十八妹は十五  諸国大名は弓矢で殺す   糸屋の娘は目で殺す(起承転結)」「有事嶄然  無事浩然  失意泰然  得意淡然」

5月17日(日)
村上春樹『猫を捨てる  父親について語るとき』を読む。百ページの小型の本。初出は雑誌で、この作家でなければ単行本で出ることはなかっただろう。台湾のガオ・イェンという人の挿絵が雰囲気を醸し出している。

5月16日(土)
雨。心置きなく家にこもる。することは山程あるのに、心がうろうろしていて、そういう時は頭の片方を使ってゲームをする。もう片方であれこれ悩んだり悔いたり計画したり。ロジパラの最高難度に取り組む一日。

5月15日(金)
ぱくきょんみさんから、おかざき乾じろ(岡崎乾二郎)さんのアマビコの絵が送られてきた。アマビコもアマビエもアマの語源は天だったと岡崎さんは考える。疫病の伝染に抵抗する力を絵が与えるという思想。見よう。

5月14日(木)
きのう文教堂では本の種類が限られていたので銀座か日本橋で、と思ったが、丸善も教文館も蔦屋も休業中!ビル全体が休んでいるのだから当然なのに、私の心の一部がどこかに飛んでしまっていて判断できない。

5月13日(水)
書店は閉店を要請されていないため、いつもより混んでいる気がする。棚のあちこちが空いていて、売れ行きに仕入れが追いついていないようだ。文教堂までせめて片道だけでも歩いて行き、数冊買ってバスで帰る。

5月12日(火)
郵便局への帰り、スノーポールの花壇の中のベンチで暫く陽射しを浴びる。今日は夏日になるという予報だったが時たま爽やかな風が樹々の間を抜けてくる。想いはまた過去に向かいがち。アイスクリームを食べよう。

5月11日(月)
手紙や写真を整理することで、図らずも来し方を振り返る日々となっている。ただ突っ走ることに精一杯で、周りの人達の温かさに気づかなかった時期も多い。その人達に御礼を言いたくても、もうこの世にいない・・・

5月10日(日)
今夜のNHKクラシック音楽館はフィルハーモニア管弦楽団で、ラベル、シベリウスにつづくストラビンスキー「春の祭典」を聴くようにプロがメールをくれた。「出だしのファゴットソロが今まで一番のうまさです」。

5月9日(土)
指揮者の井上道義さんがコロナについて滔々と「ジジイ混濁ター」の自論をネットで展開しているーー演奏会、集会、教育の場を閉じるのは正気の人間のすることではない、ホモサピエンスとウイルスは共存すべきだ。

5月8日(金)
コロナウイルスが蔓延し始めてすぐ、その刃にかかって死去した志村けんの1時間にわたるインタビューが再演された。Mr.ビーンを演じるローワン・アトキンソンが「日本にはシムラがいる」と言ったことが頷ける。

5月7日(木)
Fitzgerald の短篇 "The Curious Case of Benjamin Button" を読む。映画の甘美さなし。あとは大作3本を時間的に読み分けている。J・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』、D・レッシング『シカスタ』、『源氏物語(東屋から)』。

 5月6日(水・祝)
今朝のク倶楽部は高橋アキ+つるの剛士「ぞうのババール」(矢川澄子訳)。途中で夢の中へ。実際に会場にいて終わると和子ちゃんとデイヴィッドに、ちかちゃんと呼ばれた。「わたしも一緒」と祐子ちゃんが言った。

5月5日(火・祝)
街にも観光地にも人がいない連休。後世にコロナの年と呼ばれるのかな。NHKBSで毎日みる昔の映画はややカットされているものの思い出を揺さぶられるに十分。今日は『ドクトル・ジバゴ』。最後のバラライカに涙。

5月4日(月・祝)
つまらないので翻訳塾でメールアドレスか住所を知っている人達全員に英語のクリプトグラム(暗号クイズ)を送る。チョコレートのフィリングを見つけるもの。答えが送られてくると元気なことが分かって安心する。

5月3日(日)
必要至急のことがあって『英語となかよくなれる本』文春文庫版に目を通す。今は電子書籍でごく僅か読まれているだけで、あの頃は書く勢いがあったなあと思う。いい本だと思う。これぞ自意識過剰の自画自賛。

5月2日(土)
スーパーで粉類の棚が空っぽだ。家でパンやケーキを焼くひとが多いからだそうでホットケーキ用の粉もない。世界の大都市で同じ現象が見られるとNYTの記事にあった。粉を練っているとコロナ不安を忘れるという。

5月1日(金)
「身の奥へやさしき思ひが落ちし時  ああ  あめつちは深しとぞ思ひき」「ああなれどあなたに逢ふた今生の  この  あめつちをいかに思はむ」(唐澤るみ子『天地(あめつち)』から