98字日記ー2018年4月

4月30日(月・祝)
大型展覧会に向き合う力がなく『ジョルジュ・ブラック展』にした。メタモルフォーシスを意識して画家が造形に感性をこめた結果が美しい。鳥や魚が華麗に舞いブラックの暗い絵画のもつイメージを一新させた。

4月29日(日)
松田梨子・わこ姉妹の名前が朝日歌壇から消えて寂しかった。それが今朝、梨子作品が二人の、わこ作品が四人の選者全員の欄に入って復活。「ねえちゃんを想ってくれる人がいて今日はほのぼのレモネード日和」。

4月28日(土)

昨年夏に東京駅ギャラリーでみた不染鉄の画集が出て、横尾忠則が力強い評を書いている。「幻の天才画家は僕の胸をざわつかせ続けている」。なるほど。文字を書くように絵を描いている、と何故か私は思った。

4月27日(金)
全世界への生中継を家のTVでみる。朝9時半、北朝鮮の指導者として初めて金正恩委員長が韓国を訪れ文在寅大統領と会談した。二人だけで公園の青いベンチに座って話しこむなど興味深い光景の数々に目が釘付けに。

4月26日(木)
今日は本心を文字にしたくない日。特別に辛いことがあったわけではない。いつものように日は過ぎている。寂しいことといえば五十嵐とよみさんが亡くなられたと社報で知った。親しく慕える先輩がいなくなった。

4月25日(水)
横浜美術館でテート所蔵品から構成されている『ヌード』展にはみたい作品が多く、とくにロダンの「接吻」は大理石の塊の大きさを実感したい。でもすでにみた人の若干辟易という感想もものすごくよく分かる。

 4月24日(火)
 チューリップを片付けたあとに花菖蒲をいただく。黄色の縁をもつ白い花と紫の花が緑の葉の中で爽やか。本を積み重ねてあったサイドボードの上をきれいにした甲斐があった。物に埋もれた生活に戻らないように。

4月23日(月)
ピアニストのマリア・ジョアン・ピリスが間もなく引退と記事で知る。最後の来日ツアー中だそうで、なぜか私のアンテナに全く伝わらなかった。残念。あの自由な空気に触れたかったなあ。TV放映がありますように。

4月22日(日)
ボロボロのセーターを日夜、着る。カシミヤ混ざりのシルクはとろんと柔らかで寝衣の上に心地よい。数日ごとに洗濯機で洗ってしまう。手首と首回りと他も破れている。白灰色で胸元に銀糸が縫い込まれている。

4月21日(土)
どうして父の名前を知っていて下さったの、と聞くのを忘れた。石川県立美術館で昨日から「コレクション・近現代絵画優品選」展が始まり、あの『手鏡』がその一点であることを教えてくれた。金沢に行こうか。

4月20日(金)
根津神社のつつじ苑が、もう満開のつつじで華麗に彩られている写真を訪れたひとに見せてもらったが、予定より1ヶ月近く早い。バス通りに沿ったミシマツツジも濃いピンクで辺り一帯をあかるく染め上げている。

4月19日(木)
同じバス停で乗った車内で素敵なひとと隣り合わせ、15分ずっと話しながら終点まで。藍色の麻の葉模様の和服が美しく、聞くと今日は観世流のお能の稽古とのこと。70代後半かしら。立ち居振る舞いが流れるよう。

4月18日(水)
「空港ピアノ わが故郷シチリア」というTV番組がよかった。シチリア島のパレルモ空港のピアノは誰が弾いてもいい。旅から帰ってきた高校生、出張前のビジネスマン、時には本物のピアニストが自作を初披露する。

4月17日(火)
『グレート・ギャツビー』の村上春樹訳をまた読み直した。本当にうまい。というか血の通ったリズムと色の煌めきがある。美しい装丁の初版の素敵さと違った魅力を中公の翻訳ライブラリーの手触りの中に見つけた。

4月16日(月)
久しぶりの錦織圭。モンテカルロ・マスターズが始まって、TV中継をみると、とにかく暑そう。観客も真夏の装いでモナコは穏やかというイメージが覆された。今ペルディハ相手に初戦突破。ミラノも暑いのかな。

4月15日(日)
米軍が英仏との共同作戦でシリアをミサイル攻撃した。三つの化学兵器関連施設というが市民に影響のないはずがない。もとは内戦であり、21世紀になってなお、と悲しい。化学兵器もミサイルも人類にとって要らない。

4月14日(土)
黄色のチューリップを6本、600円で買ってきた。白い花器にいれて出窓に置いた。ついでに、というかこちらが本命だったかも知れないけれど、苺のショートケーキも買ってきた。アールグレイをたっぷりと淹れた。

4月13日(金)
お年を召して翻訳塾を辞められる方はすでに数多い。16年経つから無理もないこと。寂しいけれど、穏やかな日々を過ごされることを想像する。その日々に、ふと課題の一文や言葉が浮かび上がってくれればと願う。

4月12日(木)
今週はメトオペラのライブビューイングに行ったため、予定外の4時間が尾を引いて睡眠不足になっている。『ラ・ボエーム』は地味な作品だけに歌も演技も格段に優れていなければ惹きつけられないが、よかった。

4月11日(水)
午後の東西線で。ドア横のくぼみに降ろしたランドセルに腰掛け、ゴムを首に回したまま脱いだ帽子を胸に抱えてうとうとする小学生。灰色の半ズボンに紺の上着。私と同じ駅でぱっと立った。すべてが真新しい一年生。

4月10日(火)
チェロを習い始めた人に私の好きなチェリストとしてジャクリーヌ・デュプレの名を挙げた。でも最近はCDを聴いていないので、ふとYouTube でみると何てたくさん入っていることか!また移変りの速さを思った。

4月9日(月)
緑の濃さが目に染みる季節。住処の周りに木々が豊かなのを、とくにこの時期は幸せに思う。植物の名前に疎く、窓のすぐ外で濃いピンクや真っ白の花を枝いっぱいに誇っている木たちに呼び掛けられない。ハナミズキ?

4月8日(日)
スマホを全く使いこなしてはいない。Mに会って見せたいサイトを示すと、貸して、と言って自分のラインに送った。即座に彼女の腕時計がチャランと鳴って、届いたと言う。魔法の時計、小学生の時に持たせたかった。

4月7日(土)
今日が入学式の学校も多いようで、少し緊張した親子の式服姿があちこちで見られた。小学校の卒業式では羽織袴姿が流行っているというのは本当だろうか。大人の駄目さ加減が思いがけないところで現れることがある。

4月6日(金)
池澤夏樹さんによる4日付朝日夕刊の「終わりと始まり」は石牟礼道子さんについての深い、深い記録的随想だ。人となりを伝える作家経歴ともなっている。しかも「魂の共感能力が自分には不足している」と記す。

4月5日(木)
小「ラッキ~」が重なった一日。新宿行き地下鉄が例の新装応接間的車内だった。人数不足寸前の翻訳塾が四クラスとも成立した。失くしたと思った一万円チャージしたばかりのSUICAが見つかった。後は書けないこと。

4月4日(水)
関内の横浜公園をチューリップが埋めていた。暖かい日が続いて満開をすぎた花もあったが、それはそれで67品種16万本の個々が主張していて美しかった。とくに深い赤が持つ様々な表情の豊かなこと!水曜クラスの皆と。

4月3日(火)
近くのバス停から両国駅行き路線誕生。ただし日に一本。ここは山村? 乗ってみると江戸東京博物館の前に止まることが分かった。新装なった会場で『大江戸展』をさらっと観る。またひとつ寄り道の楽しみができた。

4月2日(月)
本棚を整理しながら、つい手に取った本に引き込まれていく。リルケ にまつわる志村ふくみ『晩祷 』『薔薇のことぶれ 』はもう一度読もう。この比類ない染織家の藍を絞る手に潜む限りなく深い知と感性に触れよう。

4月1日(日)
東京駅丸の内側の広場がきれいになリ、二転三転していたバス乗降車場も決まり、家の近くのバス停から一度乗換で北口つまりステーションギャラリーの真ん前まで無料で行ける。今日は隈研吾の建築模型を見てきた。