98字日記ー2017年9月

9月30日(土)
今夏はオペラのライブビューイング、と決めて「アイーダ」のあと「トゥーランドット」も「テンペスト」も見た。なのに「ドンジョヴァンニ」を忘れていた!騎士団長やドンナ・アンナを見て聴きたかったのに不覚。

9月29日(金)
コレド室町は日本橋らしい粋な風情をもつ場所になっていた。初めてポンドールイノで会食。手の込んだフレンチが美味しかったし、部屋のくつろいだ感じもいい。広すぎず、窓の外の植え込みの緑が艶やかだった。

9月28日(木)
日本人女性としてエベレスト初登頂を果たした田部井敦子さんは講演を聞いたし著書も読んだ。でも二人目の難波康子さんについては、ほとんど知らなかった、今度の課題で1996年の遭難事件について調べるまでは。

9月27日(水)
肩が凝ることは滅多にないのに、たまにそうなると辛い。食べることで気を紛らわす。サンドイッチ用の薄いパンをカリッと焼いて、バターを少し塗り、明治屋の缶詰の「ふじ種りんご」薄切りをのせる。ミルクティー。

9月26日(火)
何か事があって家に閉じ込められるか、店での買い物がまったくできない状況になっても、私は2ヵ月くらい困らない。電気とガスが使えれば3ヵ月以上大丈夫。つまり食べ物の買い置きが多いわけで、反省しなくては。

9月25日(月)
バスにインドの人と乗り合わせることが多く、最近は赤ちゃん連れの若い親が増えた。東京が単身赴任で働く場だけでなく生活の場でもあるのを感じる。赤ちゃんは必ず金か銀の華やかなアンクレットをしていて綺麗。

9月24日(日)
テレビで放映されている放送大学って、なぜあんなにつまらないの?教科書が別にあって確認するだけの番組だから?それにしても今日みた英語で日本文化を紹介する試みも行儀が良いだけで、どうしようもなかった。

9月23日(土)
『ギルバート・グレイプ』での鮮烈な子役デビューの延長線上にいるからディカプリオが好き。だから『レオン』のマチルダを演じたナタリー・ポートマンは必ずみる。つぶれた天才も多い中で貫いているものの素敵さ。

9月22日(金)
待つ、という時間の長さに辟易することが多い。乗り物の一つ一つに、荷物の受け取りに、人との待ち合わせに、診療待ちに、何かの始まりに。中世の女たちはギロチンの傍で待っている間も編み物をしていた。怖い。

9月21日(木)
被爆国なのに核兵器禁止条約に署名しない日本。被曝してもなお原発を増やしていく日本。もし自分が日本人でなかったら、絶対に日本語を学んだだろうと思うほど日本が好きなのに世界に対して後ろめたいのが悲しい。

9月20日(水)
秋鮭の切り身にハーブを5種類くらいとスパイスをまぶしてオリーブオイルで表面をカリッと焼く。添えるジャガイモは軽く粉ふき。鮭のあとで炒めた青梗菜。冷たい白ワインをグラスに入れて、さらに氷を入れる。残暑。

9月19日(火)
もう絶版になっている絵本を1冊、アマゾンの中古で取り寄せた。愛知県刈谷市から届
き、丁寧な包装とともに可愛いカードに「お買い上げいただき ありがとうございま
した」と優しいペン書きが添えられてあった。

9月18日(月)
今朝は5時に目が覚めて、いいチェロを聴いた。ジャン=ギアン・ケラスと横坂源。バッハとカサドのそれぞれ無伴奏チェロ組曲、ほか。ほか、がなんだったのか、そのあたりでまた眠ってしまい起きたらニュースだった。

9月17日(日)
気力と体力。昨日クラスでエベレスト登攀の訳をしながら、幾種類かの表現が何れも結局はこの意味だと理解した。自分にも必要な二つで、今日は家でギアチェンジ。また『レオン』をみた。殺し屋の話だけれど、最高。

9月16日(土)
少し疲れた。空気中の湿気に敏感になる。翻訳塾は好きで、授業をしている時は細胞が生き生きと開いているのに、それ以外では萎縮している。日本列島上を北朝鮮のミサイルが飛び、大型台風が九州から北上しつつある。

9月15日(金)
シェークスピア『テンペスト』は舞台で映画で見てきて、METのライブビューイングが新たなイメージを重ねてくれた。ソプラノのオードリー・ルーナのアリエルが声も最高、小さな顔の大柄な姿態が魅力的だった。

9月14日(木)
年配者が若い人を褒める時によく言うのが「はきはきしている」。言葉遣いでも態度でも。でもシャイで呟くように話すのもいい。同様に子供達がビシッと列を作って身動ぎしない時、感動しそうになる自分を戒める。

9月13日(水)
朝9時20分に家を出て横浜に12時20分着。こう書いてみると、ひどい。京急が事故で動かなかったためだけれど私の路線変更ミスもあり、ただ、それには京急の指示が最悪だったせいもある。ついてない日だった。

9月12日(火)
今週は4クラス全部があるヘヴィーなスケジュール。終日、提出されている訳に向き合う。昔に比べれば英和辞書も優れたものになっているけれど、翻訳となると間に合わないことも多い。それをどれだけ埋められるか。

9月11日(月)

スレセリ先生が夏休みのお土産に、ゴギナシュヴィリ先生がジョージア語に訳した三島由紀夫『金閣寺』を三人にくださった。あの文字がぎっちり並んでいるのだから、くらくらする。嬉しい。やっぱりやめられない。

9月10日(日)
日本橋高島屋でMに勧められた『民藝の日本』展を観る。柳宗悦が日本中を旅して蒐集した民芸品を中心に約170点。生活に根づいたデザインの原点に触れたが、形の美しさって、こんなに胸に響くものだったのか。

9月9日(土)
長編ドキュメンタリー映画『三里塚のイカロス』をみる。公開初日、イメージフォーラム、満員。あゝ、こういう撮り方もあるのかと、次々と闘う「当事者」達の顔に見とれ、声と言葉に聞き惚れる。代島治彦監督。

9月8日(金)
久しぶりの青空で夕焼け空がさまざまな色で溶け合っていた。東京タワーに少しずつ
照明が入っていくのを見るのも、数日か数カ月ぶり。隅田川沿いの築地市場船着き場
の灯りも全部点いた。屋形船の軒先の赤い提灯も。

9月7日(木)
昭和のはじめ、路面電車が走っていた頃の銀座の写真を見た。知らない時代なのに懐かしい。女の人たちがいわゆるハイカラなお洒落をしていて、ベルトのある服に帽子を少し斜めに被っている。手袋とパンプスもいい。

9月6日(水)
数日前から探している本が未だに見つからない。家の本棚を全部見てもないので、勝どきの部屋かと思って探しては空振り。その繰り返し。本だけでなく、しょっちゅう何かを探している。物だけでなく、自分の心も。

9月5日(火)
スーパーの二階にコピーを取りにいき、たらたら歩いていると次々と近所の方に会う。少しずつ言葉を交わして、地元だなあと思いつつも、すぐ近くの家の方は顔しか知らなかったりする。あふれる緑に癒されて帰る。

9月4日(月)
家でピクサーの映画『アーロンと少年 The Good Dinosaur』をみる。物語がチャーミングなのもさることながら、山、岩、川、木々、雨などが画面に広がる様にわくわくする。人の手と感性で創られたことを想う。

9月3日(日)
ほとんど一日中、活字を見ていると、さすがに夜には目が痛くなってくる。それでも眼鏡を必要としないでいられるのは有難い。最近は昼間サングラスを常時かけて光を避けるようにしていて、また新しいのが欲しい。

9月2日(土)
横浜能楽堂で『能舞台とコラボ』。笠井叡さんを中心とするダンスが能管と小鼓と共に一つの世界を生み、保ち、放出する。醸しだされた全体がいい。白足袋が床を叩く。もう少し頭で理解したかったけれど観てよかった。

9月1日(金)
「民族も言葉も年代も性別も違う人間が、どこかで出会ったとします。その時、お互いの心を近付ける一つのすべは、どんな本を読んで育った人か、を確かめることかもしれません。」(小川洋子『物語の役割』から抜粋)