98字日記ー2014年12月

12月31日(水)
スパゲッティ・ペペロンチーノは唐辛子とガーリックとオリーブオイルがいいバランスで絡まって、波除神社や神田の藪蕎麦に行かれなくても生きていかれるさというパンチのある気持にさせてくれた。ワインとともに。

12月30日(火)
脚から痛みは去ったものの、少し長く歩くと疲れ、腫れ、重くなる。百日の辛坊と言ってくれた人がいて、その具体的な言葉に支えられているが、自分のカラダの変化と折り合っていくのは、時に本当に「骨が折れる」。

12月29日(月)
深夜のテレビで前からみたかった番組「孤独のグルメ」をまとめて放映していた。しかも門前仲町に人形町と我が守備範囲。松重豊がおいしそうに食べたのは、あの中山の天ぷらだった。黒い天丼、食べにいきたい!

12月28日(日)
ホームレスには女の人もいる。実際に見かける。年末には居場所のない人に炊き出しをし宿泊先を世話する支援グループがいくつかある。どうか心を頑なに閉ざさず、差し出された手を取ってほしい。きっとまた歩ける。    

12月27日(土)
病院で処方された薬を薬局で買うとき、「おくすり手帳」に貼ってある他院の処方をコピーしていいかと聞かれた。私の使う薬をトータルにみたいという。断った。全て記録しているわけではないし、自分で考えるから。

12月26日(金)
部屋に花がある。白とピンクと薄緑色と・・・大きな花はいらない。花瓶に収まって棚の上やテーブルで空気を変えてくれる時、私もほっとする。そこに屋久島のポンカンの黄色が届けられ、私もいきいきとなる。そして・・・

12月25日(木)

6時過ぎだろうか、朝、ベッドの横のカーテンを少し手繰ると、まるで昼の空のように真っ青ななかに白い雲が列をつくっていた。眠っていたのかと思う。眠れないなら、いっそ、と紙とペンをとったはずだったのに。

12月24日(水)
今日と明日、翻訳塾を横浜と新宿の3クラス。できなかった横浜土曜クラスについては、せめて別枠のクリスマスストーリーを全員分届ける。前田さんが自宅から付き添ってくれて実行。水曜クラス全員の出席ありがとう。

12月23日(火)
林屋晴三先生にとても久しぶりにお会いした。といっても一方的にテレビで拝顔しただけ。茶室に座られ、古田織部の名品をいとも自然に温かく手におさめ、お話ぶりは矍鑠として優しく、八十代半ばの美しさを匂わせて。

12月22日(月)
人から寄せられる印象をふしぎに思う。40日間の入院中、一分として退屈ではなく、のんびりともしていなかった。たえず緊張して闘っていた。夜中でもナースの手を借りなければ寝返りもできなかった!忘れるまい。

12月21日(日)
脚が痛いから杖をついていたときと、痛くないけれど筋肉で踏ん張れないいまと、外見は同じ。ガンバロ。まず椅子から自力で 立ち上がれるように。岡野さんにお願いしてあったオリーブの鉢植えが元気に帰ってきた。

12月20日(土)
迎えにきてくれたMと黄葉も終わりに近い銀杏並木や濃淡の緑が小雨に美しく滲む皇居前を通り、40日ぶりのわが家へタクシーで。お赤飯もおいしく、同じ状態でも居場所によって気持ちはこんなに違うと大発見なり。

12月19日(金)
名前の中の茅が、よく芽と書かれてくる。形が似ているので書く人は違和感を持たないのだろう。でも音読みしたとき、私の名前はメカコではない。時によって書いた人を責めたり許したりする気分屋だけれど、私は。

12月18日(木)
やろうか、やめておこうか、と迷ったときは、やる。やらないで後悔するのはつまらない——と長年、どこかで気負っていた。このところ、それがどうでもよくなってきた。年を取った一面なのか流れにまかせたくなる。

12月17日(水)

白いカバーでくるんだずしりと重い大き目の毛布の下で眠る安定感にも慣れた。夜中、2時間おきの奇数時に看護師さんが覗いていく。毛布から出ていた私の足先に、そーっとカバーの端の布部分をのせてくれたのは誰?

12月16日(火)
ハーゲンダッツジャパンが来年3月からアイスクリームを3.4%値上げする。ミニカップが272円+税! 待望の和栗入りはペーストにして入れたのが物足りず、銀座のあそこやここのモンブランへの恋心をそそられた。

12月15日(月)
世の中はクリスマスへ、お正月へとまっしぐらに向かっているようだ。もちろん商戦が中心で25日の夜10時過ぎには、銀座四丁目あたりの百貨店や大店舗のウィンドウを飾っていた光が一斉に門松やしめ飾りに代わる。

12月14日(日)

全国を寒波が襲い青森や新潟では例年の4倍という積雪をみている。佐渡は大丈夫かしら。東京でも先ほどから霰が降り始めたらしい。こんな気象状況をついて国民一人一人に投票をさせる解散選挙の愚はどんな結果に?

12月13日(土)
石川直樹の写真がいい。葉書大1枚1枚にほぼ日新聞の奥野武範が石川に聞き込んでつけた文章がいい。地域も時代も季節も関係なく選ばれたランダムさがいい。ボリビアやブータンや徳之島や。『世界を見に行く。』(リトルモア)

12月12日(金)
私の怒りは自分の身体に向けてのもので、いくつか励ましのメールが届きうれしかった。もっと自分の身体を自覚していなかったことへの怒りなのだ。ゆうべ、病室の廊下に看護師の卵たちのキャンドルの光と歌が溢れた。

12月11日(木)
病院で数日前に希望しておいた衆院選不在者投票の初体験。自分の個室で3種類の投票用紙、記入して入れるそれぞれの内封筒、それを入れる外封筒を渡され、表にだけ自分の名前を書いて立会いの病院事務責任者に託す。

12月10日(水)
激しい怒りを覚えた。どうして私はこんなことをしているのだろう。手術をして、何カ月かでも時間と空間を広げられないのであれば、痛みとともに生きていたのに。予定より倍の日数が過ぎようとして、翻訳塾、危うし。

12月9日(火)
喪中の知らせを受け、ときにその文面に抑えた悲しみが溢れるのを胸に痛く受け止める。今年は思いがけず友人が夫の死を告げるものが多かった。ご無沙汰の間にそんな辛いことがあったのかと思う。子供と別れた慟哭も。

12月8日(月)
ドイツから買ってきてくれたニベアクリームは発祥地ハンブルクで作られたもの。白い陶器の器に入り、蓋は水色。薄い黄色のクリームはとろりと肌にしみ込む。エアコンをつけたままの部屋に密閉された身体に心地よい。    

12月7日(日)
西本宗一さんが11月24日に亡くなられていたのを知らなかった。わが家に月に一度「勉強会」と称して4、5人で集まることが最近まで3年ほど続き、大切な友人だった。聡明な方だった。もっと話をしたかった。

12月6日(土)
病院の屋上に車椅子であがる。真っ青な冬空が広がり、この空気と日の光が骨にいいからリハビリの一環。代々木公園の樹木のてっぺんが黄色や茶色を多くまとい、入院したときの緑色を凌駕している。あと何日ここに?

12月5日(金)
Mが昨日着ていたトックリのセーターは、20年前、初めてのNYMoMAのマチス展会場に入るため並んでいて、あまりの寒さに近くの店で買ったものだとか。今日、少しきつい歩行訓練を私はMoMA と唱えてがんばった。

12月4日(木)
土井善晴先生が料理の盛り付けをみて判定するときの一言がいい。鍋の材料を大皿に並べた、一見、豊かで取りやすそうな趣向に「盛り付けた人がドヤ顔をしている」という。刺身に求められる清潔感も難しそうだ。

12月3日(水)
"Are you vexed with me?"
ある家庭でよく使われている言い回しとして、『The Goldfinch』の中に登場する。「怒ってる?」「気をわるくした?」「イラついてる?」。それとも男の子が幼い頃から使っていたから「ぼくのせい?」

12月2日(火)
二度目の手術は麻酔覚めもきつく、手術はもうやりたくない。これまでに私を救ってくれた五人の整形外科医に一期一会の順に心からの感謝を捧げておきたい。平井志馬、田中誠、滝田泰人、深谷英世、岩科麻紀の先生方。

12月1日(月)
「おやすみなさい 空の星/おやすみなさい 仲間たち/鐘が鳴りますキンコンカン/昨日にまさる 今日よりも/あしたはもっと しあわせに/みんな 仲よく おやすみなさい」(『鐘の鳴る丘』主題歌「とんがり帽子」から 菊田一夫作詞)