98字日記ーひとりのときに

文章を書く鍛錬として書きはじめました。

「98字」は自分への課題のひとつです。

バイオリニストが演奏前に調弦するA(アー)の音のように、

正確に、短く、つづく音楽が気持ちよく響くことを願って

2月18日(火)
コロナウイルス新型肺炎への恐れが広がっている。風邪の症状があれば学校や会社を休むようにとの政府発表ではあるけれど、そうもいかない人が多いに違いない。陽性かどうか分かるのに日数がかかるのがネック。

2月17日(月)
横浜クラスのナチュラリストから、林で拾ったという松かさを三つ、貰った。一つの直径が3~4センチ。まさに10枚は花弁が重なっている焦茶色の薔薇の花。でも柔らかくはなく、かっちりと強い。飽かず眺めている。

2月16日(日)
講談は話が怖そうで近づけないが、六代目神田伯山の講釈ががネットで片鱗を見られ、今夜は「情熱大陸」で襲名披露興行の『畔倉重四郎』のとくに最後を聴けてよかった! 昔はふらりと立ち寄っていた新宿末廣亭で。

2月15日(土)
木場をバスで通った時、枝に濃いピンクの花をいっぱいつけた並木道が見えた。多分、梅。今日は気温17度という暖かさで、梅も春が来たと思ったに違いない。バスは深川伊勢屋本店の前で信号待ち。お団子を食べたい。

2月14日(金)
外に出たのは資源ごみを置きに行った時だけ。暖かく安全に静かにゆったりと家にいるのは何と気持ちのいいことか。厚い絹揚げ豆腐と生椎茸をこんがりと焼き、瓶詰めの刻み生姜と薄口醤油で。食器は青い蔓草模様。

2月13日(木)
新型コロナウイルスによる集団感染の日々のニュースに、ズボラな私さえ普段の2倍は手を洗うようになった。マスクは1日1枚、とMに箱入りを渡されている。人混みに近付きたくない気もする。いつか収束するのかしら。

2月12日(水)
一日24時間では足りないくらい遊び呆けているという友人。歌集はこれでお終いにしますと遺書の如き歌を数種詠んで送ってくれた友人。80歳という年齢はさまざまな揺らぎをもたらすようだ。私は取り留めなくいい加減。

2月11日(火・祝)
映画を観る時間が十分取れない。昨日アカデミー賞授賞式だったのに、昨年の作品賞を受賞した『グリーンブック』をつい最近観たところ。1962年の米南部を黒人ピアニストが演奏してまわる実話。心に深く刻まれた。

2月10日(月)
いま、を大切にしたい。同時代を生きている人がすることを大切にしたい。現代アートにそのまま触れたいし、現代音楽を生で聴きたい。パフォーマンスや演奏の場にいたいし、古典の観衆や聴衆も「いま」の存在。

2月9日(日)
三鷹の帰りに原宿の大田記念美術館へ。肉筆浮世絵名品展の最終日。葛飾応為の『吉原格子先之図』を見たくて。印刷では潰れて黒いところに原画では筆の跡がある。単眼鏡持参で見入っている外国の人が多かった。

2月8日(土)
受賞が一番とは思わないけれど、大岡信賞の第一回受賞者の一人にヒカシューの巻上公一さんが選ばれたのは嬉しい。40年前にこの人はすごい、と思って追ってきた人が認められたのだから。大佛次郎賞の黒川創さんも。

2月7日(金)
吉田純子編集委員はまた読む者の心に一人の演奏家を深く刻んだと思う。米国のピアニスト、ピーター・ゼルキン。その惜別の文は、彼女だけの知の蓄積を彼女だけの感性溢れる言葉で伝えるもの。今日付の朝日朝刊。

2月6日(木)
7年前に出版されてタイトルだけ知っていたマイケル・ブース著『英国一家、日本を食べる』を読む。よくある食べ歩きかと思っていた偏見を反省。一流の取材対象に深く切りこんでいて面白かった。寺島のぶ子訳もいい。

2月5日(水)
新型コロナウイルスよる肺炎が沢山の命を奪い、中国での死者が500人近くに。マスクが品薄らしいけれど、手すりに掴まる私は、もっと大勢の人に手袋をしてもらいたい。でもその程度では防げないほど強力なのかも。

2月4日(火)
日本点字図書館の小冊子に見知った名前があった。釜本美佐子さん。私と同世代でJTBルックのコンダクターとして世界中を周りエッセイストでもあった。70歳で全盲になられたという。今、英語の点字を勉強中とのこと。

2月3日(月)
肉も魚も大好きだけれどベジタリアンになりたくなることもある。私は元の形を想像するのが怖い偽善者。ウィーンの市場で卒倒しそうになった。でも内澤旬子さんの猪については、その哲学と美学と実行力に拍手する。

2月2日(日)
全豪オープンテニスの男子単決勝をTVで観ようと家に早く帰る。オーストリアのドミニク・ティエムが初優勝かとほとんど信じた時からジョコビッチが猛反撃。勝負師の技を見た。日曜夜の関ジャムで見る技に繋がった。

2月1日(土)
横浜のそごう美術館でロベール・ドアノー写真展をみる。白黒写真に切り取られたパリの光景や人々、一点一点に見入る。1940年代以降の光景は自分史に重なり、ほとんど人のいない会場で静かな、温かな時間だった。